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詩舞のための日本人物史97

文学博士 榊原静山

 

大久保利通(1830〜1879)

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大久保利通は天保元年八月十日、鹿児島城下の甲突川(こうつきがわ)の東岸加治屋町で鹿児島藩士大久保次右衛門利世の子として生まれている。

幼名は利済、通称正助、また市蔵と心言い、名は利通、号は甲東と称している。

利通の父の利世は陽明学にも、禅学にも深く、常に付近の少年達を集めて日本及び中国の歴史や、偉人伝等の話をして激励をしていたので利通も早くから父の教育を受けて学問を好み、奉行の隈岡五助に可愛がられ、五助からも国学や和歌などの教育を受け、父が嘉永二年に藩の内訂に連坐して遠島に処せられたので、利通はその逆境にも堪え、西郷や有村と共に有馬一郎、関勇助の門に入って本格的な近思録や伝習録を学び、嘉永四年には藩主島津斉彬に認められて蔵行に任ぜられ、安政五年には徒目附、蔵方目附、万延元年には御勘定方小頭格に、文久元年には小納戸役にもなっている。

公武合体論を主張し、後に岩倉具視等と協議して倒幕、そして薩長連合、王政復古の歩を進め、明治元年鳥羽伏見の戦いの後、利通は岩倉具視と共に京都にいて新しい都を東京へ移すために版籍奉還、廃藩置県などの大改革を行ない、明治政府の基礎を固めた。明治四年には欧米視察の旅を終えて帰国後内務卿となり、明治七年の江藤新平の佐賀の乱には全権を受けてこれを鎮定し、同年には台湾に出兵し、更に全権大使として清国へ赴き、明治十年の西郷隆盛の西南戦争の際には大阪へ行って政務をとり、明治十一年には地方自治の制度を確立して政府の基礎作りに努力していた。しかし明治十一年五月二十四日、大政官へ出勤のため馬車で麹町紀尾井町の清水谷にさしかかった折、島田一郎等五人の壮士に襲われ、四十九歳の働きざかりの大久保利通が悲壮なる最後を遂げてしまったのである。

さて、この島田一郎等の謀計のことを警視庁から再三注意があったが利通は『生死はもとより天命であり、刺客が自分の身辺を狙う以上百千の護衛をつけても甲斐はなかろう。そのようなことでおびえていたのではほんとうの国の政治は出来ない』と言い切っている。

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大久保利通の詩の中で、多くの人に一番知られているのは西郷隆盛が明治元年征東の総参謀として討幕の兵を進めて東京へ行かれるのを京都にあって見送るという詩である。

この征東軍というのは伏見鳥羽の戦で幕軍は全滅したので薩長軍の“勝てば官軍”で錦の御旗を項戴して有栖川(ありすがわ)宮を征東大総督に、西郷隆盛を総参謀にしての東を征する軍である。

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<訳>征東の錦の旗が春の風にひるがえり、陛下の威徳が天地(六合)になびき東海道から東へ行く。西郷ドン征東軍の結果はいまからわかりきっている。

 

 

 

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