別の例では、尊敬する父親が痴呆だということを受容できずにいる息子の場合です。細かいことまで行動をチェックし、怒鳴ったり、時には叩いてしまう息子さんは、強迫的な性格の故に、父親の理不尽な言動が許せないのです。しかし2ヵ月3ヵ月とかかわっているうちに、それだけでなく、妻(教員)が舅の介護を拒否していることが背景にあることがわかりました。それを知ったからといって、「奥さんにもう少し協力してもらえ」とはいえません。彼は妻との関係を壊したくないし、父親も大事なのです。
また、介護講座が終わって帰ろうとするとそれを待っていたある女性が「皆の前では言えないことなので」と話しかけてきました。「自分は姑にさんざんいじめられた。その姑が痴呆になり夫の意向で家で介護しているが、どうしても優しい気持ちで接することができない。介護の本を読むと優しくしないとボケが進むと書いてあるが、姑の痴呆は私のせいなのでしょうか」。私は絶句してしまいました。「そんな辛い過去を引きずりながら、いま介護しているならそれで十分なのではないか」と言うのがやっとでした。いま考えてもそれしか言えないでしょう。
このように生活とはさまざまな歴史や性格や価値観などを背景にしているのであって、これが正しいとか、かくあるべしといったモデルはないのです。医療モデルを示して“指導”するより、一人一人(家族)の生活をすべて肯定して、手を差し延べるのが介護者へのサポートなのです。
2) 生活指導や関係調整をしない
訪問看護やホームヘルプは患者さんの家に上がり込んでの仕事です。医師の立場では往診ですが、病院や診療所での診察とまったく違う側面があります。