しかし聖書では、痛みは必ずしも罪の結果の罰ではないといいます。聖書は因果律をとりません。そういう意味では合理的ではないのです。物事の背後には人知による理解を超えた神の意志が働いているはずだからです。神が全能であるならば因果律にしばられるはずもなく、神の前では因果応報は大原則ではあり得ないのです。
痛みは人を孤独にするということも見てきました。誰にもわかってもらえず、ひとりそれを抱え込んで悶々とする痛み。しかし聖書は、その孤独のどん底でこそ神と出会うことができるといいます。痛みが、孤独が、われわれを神との根源的な関係へと呼び戻すというのです。
確かに人は痛むとき自分の弱さと限界とをいやというほど思い知らされ、神を呼び求めます。「苦しい時の神だのみ」といいますが、痛みを通して人はあらためて自分の存在を意識し、神の前に呼び出されるのかもしれません。
痛みに茫然自失となったとき、苦しみを共にし、悩む自分をあるがままに受けとめてくれる存在は、文字どおり地獄に仏。その優しさと愛に支えられ、痛みの奴隷状態から解放されるきっかけを得ることがあります。
コンパッション=共苦すること
“苦しみ”はラテン語で「パトス」といい、英語のパッション(passion)の語源になっています。