日本語で「バチがあたった」というときのバチは漢字で書けば「罰」です。胸に手を当てて考えてみると何か思い当たることがあったりします。そして「あのせいだ、あれが原因に違いない」と考えるわけです。
仏教では因果応報ということをいいますが、ものにはすべて「原因−結果」の因果関係があり、それに応じて報いが与えられるわけで、善因善果、悪因悪果。おまえが痛み苦しむのも故なしとはしないという論理です。これが受くべき罰であるならば、それにあらがい抗するなど天をも恐れぬ所業。かくなる上はこれに甘んじ痛みに耐えよ、ということにもなりかねません。
人は痛みを身に負うとき、往々にして自分が犯したはずの過ちを探り、いまの苦しみはその代価であるという審判のつらさにさらされます。
また、痛みは人を孤独にします。自分で背負うしかない、身体的な痛みに加え、誰にもわかってもらえないという孤独の中でひとり耐えるしかないと感じられるのです。
孤独の源には、しばしば「どうしてこの私が、私だけがこんなめにあわなければならないのだ」という理不尽さへの怒りと情けなさ、絶望感もないまぜになっています。
こうして痛みは、身体的のみならず精神的にも人の存在を根底から深く揺さぶるのです。
聖書と“痛み”
ペインの原義は罰につながっている申しました。およそ物事は因果関係で成り立っており痛みにも原因があるはずで、いま苦しんでいるのはその結果だ、と考えるのは理にかなった、つまり合理的な考え方であります。