残念なことにわれわれの日常的にはこのどれかを押し殺し、折り合いをつけながら生きていることが多いのではないでしょうか。その結果、どうも自分らしくない、どこか納得がいかずこころにひっかかるものがあると感じてしまう。その点、たとえばボランティア活動ではこの3つの面をフルに活かすことが期待されており、社会的に役立つだけでなく自分らしさを取り戻す契機にもなっていたりします。
人間の真価が問われるのは、結局はこの“スピリット”、こころのありかたにあるとさえいえるのではないでしょうか。
自分らしさと“からだ・あたま・こころ”
ところがいままでの日本の教育は圧倒的に「あたま」偏重でした。「からだ」のことは体育、給食など多少の配慮をしながらも、こと「こころ」の教育ということになると丸ごとすっぽり落としてきてしまったのではないでしょうか。
もっとも、こころ優しくやっていたのでは受験戦争には勝ち抜けませんし、「こころ」を脇へおいてこそ利潤追求に徹し、奇跡といわれた経済発展が可能だったという皮肉な一面も否定できません。そしてバブルがはじけたいま、出るわ出るわ、おとなも子どもの世界も「こころない」犯罪、事故、事件の連続です。
明治時代にヨーロッパの教育をお手本として取り入れたときには前述のキリスト教的人間観が下敷きになっており、これを「知育、体育、徳育」と解釈しました。知育、体育はいいのですが、“スピリット”を徳育とするのはちょっと違います。スピリットが健全であることと道徳教育が徹していることとは別の次元のことなのです。