私は大学生の文章や企業が昇格試験等で課す論説文や東京消防庁の研修者の論述を読む機会が多い。論説文に要求される条件として私が掲げる五つの中で、この条件が最も具合が悪い、大学生も会社員も消防官も。これが大学生か?これで課長が勤まっているのか?この人は東京消防庁の消防司令補ということだが自己啓発を大きく怠っているのではなかろうか等々頭を傾げる場合が決して少なくはない。
・何故か? 理由は簡単。知性や教養が不足しているからである。
・ではどうするか? 日頃から読書に親しみ、体験(知的体験=講演会・音楽会・展覧会等々を含む)を重ね、思索し、討議・討論し知識を広め、教養を高めることを心がける。それらが有機的に総合されると論述の中に知性・教養といったものを感じさせる思想というものが自然に養われる。こうなれば知性・教養の感じられる論述が可能である。
・だが、そうなるには大変な時間・労力・経済力が必要で、急場には間に合わない。便法はないのか? 有る。一つは主題を自分の土俵に引きずり込み(自分の専攻や得意とする分野と関連させて)論述する方法であり、もう一つは読書等によって知り得た言辞・箴言・格言・諺・哲理などを巧く引用しながら論ずる方法である。諺や格言など短時間で幾つも理解し、記憶できるから常日頃馴染んでいると、論述を進める中で、引用したいことばが記憶の中から浮かび出てくる。故事成語辞典・ことわざ慣用句辞典・名言集の類は数多く出版されている。こういうのを一〜二冊書架に置くとよい。
先人の言辞を引用すると知性・教養の感じられる文章になり易いことの証明に東京消防学校に於ける東京消防庁の初級幹部研修で提出された課題作品を執筆者の所属と氏名を伏せて紹介したい。
育てる
昨年四月一日に司令補に昇任した私は初めて部下を預る身となり、「育てる」という新な、そして重要な任務を負うこととなった。
「育てる」ということの意義や方法を考える時、私は先ず一七六二年にフランスの思想家ジャン―ジャック―ルソーがその著『エミール』の中で唱えた自然主義に基づく教育論を思い出す。その概要は「人間は元来、自己を愛し、隣人を愛し、困っている人をいとおしむ善なるものとして生まれ、育つものである。しかし、それが社会の様々な矛盾やしがらみに接するうちに歪められ、毒されていく。例えば嫉妬心や虚栄心、排他心などは社会が作り出すものなのである。よって教育とはその対象者を如何に社会の悪作用から遠避け、本来の自然な道筋を歩ませていくかというところに成り立つ。」というものである。私はこの『エミール』を学生時代に読みかじり、「全くその通り」と同感し、以来、学習塾や家庭教師のアルバイト、少年野球のコーチ等を行う上での根本理念としてきた。
今回、私の「育てる」べき対象者はこれまでの子供達とは違う大人である。年齢は二〇歳前後から私より年上の四〇〜五〇歳代の人にまで及ぶ。しかしやはりルソーの教育論を「育てる」のべースにしていこうと思う。例えば消防学校卒業したての社会人一年生の若者には何よりも社会に対する希望や意欲を損うことなく継続させるよう配慮したい。またマンネリ化して意欲に欠けた中高齢者があれば人間の本能的な感覚である自己を向上させる喜びや持てる力を存分に発揮する喜びを味わわせることから始めたい。つまり人間の自然な「育つ」過程を維持したり、或は呼び戻したりするのである。そしてそれは教育と名付けての特別な時間や場所・教材を要しない。日常共に仕事に取り組む中で部下一人ひとりの感情に訴えていけばよい。
自らの目標達成のために計画を立て、これを実行し、その結果を評価する。反省すべきところがあればこれを反省する。これらを繰り返す中で人間は自と成長を遂げる。職場においては疑問・工夫・反省・達成感で表情豊かに仕事に取り組んでいる人間こそ成長を遂げるのである。部下をそのような表情豊かな人間にするには先ず私自らが表情豊かに仕事に取り組み、そこに部下を巻込んでいけばよい。但しその表情の元となる感情は決して嫉妬心や虚栄心であってはならず、そういう感情に部下を巻込んではならない。もし巻込めばそれは部下の「育つ」過程を害することになる。