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どうせ家に帰ってさばいて食べるのですが、元気でいきいきしていたものの命が消えてしまったという、その悲しみはすごく大きかったです。

あのグリグリという感触は、命の感触ではないかと最近思います。それはもちろん川の魚だけにあるのではなく、草の中に隠れているバッタや森の中のセミやヘビ、トカゲ、ツグミ、ヒヨドリ、田舎道をてくてく歩いていた野良犬、農耕馬や牛など、それから、男も女も子どもたちも、雑草も畑の野菜も、生きているものはみんな体の中にあのグリグリという、激しくて、そして儚く消えてしまうかよわいものを持っているのではないかということを、僕はまだ10歳になる前から体全体で感じていたような気がします。もちろん子どもですから、グリグリというものを「これは命なんだ」と概念化して言葉にすることはできなかったのですが、なんとなく命と向かい合っているという感触を常にあの時期から持っていたと思います。大人になってそういうことに気づいてみると、僕らがあの小さな小川で、あの小さな魚からものすごい貴重なものを受け取っていたのではないか。1日に何度となくグリグリを体験していた。毎日学校に行っても授業の内容などはほとんど頭にありません。今頃ゴリがあそこの大きな石の下へ隠れているはずだとか、ゴリが泳いだりしているところが見えるのです。そうすると授業などは全然聞こえていないわけです。そんな少年時代があったことが僕は本当にうれしいし、貴重だと思います。

今の子どもたちは、僕らが当時持っていなかった美しい印刷物やビデオとか映画やテレビの画面で、本当にすばらしい遠くの国の美しい生き物や珍しい動物たちを見ることができて、それはそれですごいことだと思います。

タコが岩の間で産卵して、オスが吸盤がすり切れるまで一生懸命酸素を送り込み、そして、小さな卵からタコの赤ちゃんが大海に飛び出していく瞬間が映像に映る。感動的ですよね。そのあと、オスのタコはイボもつるつるになってしまって、ぞうきんのようになって死んでいるという命の儚さと感動的な感情を画面で見ることができます。

しかし、自分の手で、命が激しく脈打っているグリグリという、激しくて、強くて、儚くて、弱くて、やさしくて、わびしくて、せつないような、あの感触を今、子どもたちは体験しているだろうか。

 

ずっと感じ続けていた少年時代を持っていたということが、僕と征彦の人生を変えてしまいました。

征彦は今、京都の山奥、丹波でアイガモを飼ったり、アイガモに草を食べさせて無農薬有機農法の田んぼをやりながら、絵を描いています。

僕も『ちからたろう』という絵本を今から37年ぐらい前に描くまではとても貧乏で、街の生活をしていました。『ちからたろう』が売れてお金が少し入りましたので、今考えると、青山あたりへ事務所を構えて、美人のアシスタントを5〜6人はべらせて、電話が鳴りっぱなしで「先生は今忙しいので、アポイントメントを取ってください」などと言って断るという道もあったのだと思いますが、僕はそういうことは全然考えませんでした。お金が入るとすぐに日の出村(当時)に引っ越しました。

 

◆ 日の出

当時、東京都に村という字が付く自治体は、離島を除くと2つしかありませんでした。その日の出村に引っ越してヤギを飼って、畑を耕して、庭には芝生やマツやツゲなどの腹の足しにならないものは1本も植えず、モモやクリやウメなどを植えました。これは今では大きな木になり、カキも毎年なっています。芝生のかわりにニラをびっしり植えて、芝刈りの代わりにニラ刈りをやって、それを細かく切って、ニラだけのぎょうざを作ったりしていました。

そういう生活を選んだのが1969年ですが、1984年になるとそこに東洋一の処分場ができてしまいました。これがまた僕の人生を狂わせてしまいました。

ヤギも、今頃は西多摩の平地の方は草が枯れますから、食べる草がなくなります。ですから、僕の家のすぐ裏手にある山を登って尾根を越えると、そこは東京ドームの敷地の7倍くらいの谷間で、この部屋くらいの池というか沼があって、こんこんと水が湧いていました。その周りは湿地帯ですから、真冬でも青い草が生えていたり、シダやヒサカキやヤブツバキなどの常緑の照葉樹の灌木がたくさんあります。

 

 

 

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