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1971年〜1988年

津軽海峡に永遠の別れを

 

昭和45年(1970)代のはじめに絶頂期を迎えた青函連絡船は、その後の石油ショック、さらに航空機利用者の増加で「終焉」へと向かっていきます。そして、昭和63年(1988)、青函トンネルの開通をもってその歴史的な役割を終えたのでした。

 

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十勝丸II

 

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空知丸II

 

●オリンピックの聖火を運ぶ

科学技術の発達は、新たな時代を呼び込みます。皮肉なことに連絡船に投入された日本の技術力は、同時に青函トンネルの開通を実現させることになったのです。一方で経済の発展にともなって、「空の旅」の利用者も増大。航路最高の輸送量、旅客量を達成し、札幌冬季オリンピックの聖火を運んで国民の注目を集めた青函連絡船も、自らの使命が終わる日を迎えるときが来たのです。

昭和57年(1982)、津軽(つがる)丸IIと松前(まつまえ)丸IIが引退。しかし、この年完成するはずの青函トンネルは工事が難航。開通するまでの6年間、残った船は予定を超えて運航し、北海道と本州を結び続けたのでした。昭和62年(1987)の国鉄民営化によって、青函航路が「北海道旅客鉄道会社」に引き継がれたとき、稼働していたのは八甲田(はっこうだ)丸、大雪(たいせつ)丸II、摩周(ましゅう)丸II、羊蹄(ようてい)丸II、十和田(とわだ)丸II、檜山(ひやま)丸II、石狩(いしかり)丸III、空知(そらち)丸IIの8隻でした。

 

●最後のバトンは青函トンネルヘ

昭和63年(1988)3月13日未明。一番列車「北海ライナー」が青函トンネルを駆け抜けました。檜山丸IIが青森港を午前0時05分に、八甲田丸が函館港を午前2時40分に出港して最後の車両を航送。午後5時には羊蹄丸IIが函館港を、午後5時05分に八甲田丸が青森を出港。最後の旅客便となりました。終航式には多くの人びとが参加し、彼らの見送りを受けて最後の航海が始まったのです。そして午後8時55分、それぞれ目的地に到着。80年間に及ぶ青函連絡船の歴史は静かに幕を下ろしたのでした。

 

50年間、船体はすべて黒だった

青函連絡船の船体の色は、最初に就航した比羅夫(ひらふ)丸、田村(たむら)丸から、ちょうど50年後に就航する十和田丸Iの前まで、黒と決められていました。洞爺(とうや)丸の沈没を礎に新時代を開いた十和田丸Iで、初めて浅緑色を採用したところ、これが大好評。そこで、すでに就航していた羊蹄丸Iなどもカラー化したのです。やがてオレンジ色や赤も登場し、津軽海峡は、ちょうど花を浮かべたかのように美しく彩られました。

 

 

 

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