柴田遊翁のころには丹波でも復興運動がありました。そして明治十九年(一八八六)には稗田野村の鹿谷に丹波信行社が結成されました。
丹波亀山における心学への関心と意欲は、現在の亀岡市に残る「石田先生誕生地」への道標にもうかがわれます。安町離水河畔の「心学石田先生誕生地」の碑は、明治四十年九月に「心学社中」が建立したものであり、亀岡市庁北側入口西側の碑は、石田梅岩先生顕彰会による明治四十年九月のものです。明治四十年のころの、石田梅岩顕彰のたかまりを反映しています。九月は梅岩先生が延享元年(一七四四)の九月二十四日に享年六十歳でなくなったその九月にちなんだものでしょう。大正元年十一月の建碑道標が亀岡市曽我部町重利の旧道ぞいにあり、大正三年十二月の建碑道標が東別院町東掛の生家入口にあるのも参考になります。
たしかに幕末・明治維新期に、心学は衰退に向かいましたが、しかし日本近代化のプロセスのなかでその伝統が途絶したわけではありません。しかし一九三〇年代のこの心学復興の動きは、国家権力に利用されてナショナリズムに癒着するようになりました。