石田梅岩のことで、私が非常に尊敬いたしますのは、亀岡から京都に出てきて、しかも独学で勉強してあれだけの趣旨をもつ市民哲学をつくりあげたということです。石田勘平(梅岩)の努力、才能は素晴らしいものだったと思います。父親が大変に厳格な方だったということもありますが、丁稚奉公、番頭奉公をしながら本を読んで哲学の勉強をされたわけです。もちろん師匠にあたる人はおりました。小栗了雲というお坊さんですが、しかしこの小栗了雲という方は出会ってから四年で亡くなっておりますので、わずか四年の間にこれだけの哲学をもったわけです。そして何度もお話が出ておりますが、一七二九年に車屋町御池で講席を開かれたのです。
ご承知の方には申し訳ありませんが、梅岩の人となりについて申しあげたいと思います。あるとき、大変に汚い衣服を着て奉公先から帰ってきた梅岩を見て、母親がなぜそんなに汚い着物を着ているのかと聞くと、「自分も汚いと思うが、お父さんやお母さんから、主人が絶対であるので楯突いてはいけない、不満を言ってはいけないと教えられていたので、言いつけを守って主人には不満を言わないで汚い服を着ている」ということを言っております。