絶え間ない経済成長とは違う他のものに目を向けた社会を真剣に考えれば、本当の疑問が生まれてきます。マルクス主義者たちは、結果がどうであろうとも、利益の増大を要求することが資本主義の本質であると主張しました。皮肉なことに、この世界観は現在アメリカが他のすべての国々に受け入れるよう強要しているものと非常に似ています。グローバリゼーションは抵抗してもしかたのない必然的なプロセスのようです。グローバリゼーションの擁護者の一人であるトーマス・フリードマンは「金色の拘束服」の話をしています。これは世界市場に参加するための多少厳しい要件のことで、後に「金色の」結果を生むというものです。この観点からすると、ヨーロッパあるいは東アジアの国々が「人間の顔を持った資本主義」を作ろうとした努力は失敗に終ることになります。ヨーロッパの福祉国家は解体するはずです。終身雇用制、長期にわたる業者との関係、年功序列の賃金などの日本のずっと昔からの伝統は捨て去られるに違いありません。利益の低い部門への投資は削減されることでしょう。
バークレー校での私の同僚であり歴史家のアンドリュー・バーシェイは、日本の社会科学について書いた本の中で、修正マルクス主義経済学者である馬場宏二の立場を描いています。1980年代の著作の中で、馬場は「日本のシステムが崩壊する大きな可能性」があると警告しています。馬場によれば「豊かな社会への切望は...組織を―そして社会と文化の再建の領域を通常―抑制のない自己弁護的な成長の追求に向かわせます。」そしてその結果、「社会の回復不能な内部崩壊」が起きるのです。(パットナムが著作の副題でアメリカ社会の「崩壊」ということばを使っているのは興味深いことです。)しかし、馬場は、会社主義(社会主義をもじったことば)が日本において資本主義のより人間的な形を創造するかもしれないという希望は持っているようです。思想としての「資本主義」が日本でそれほどポピュラーではなかったことは明白です。