「国体」ということばは、日本独自の国の本質と翻訳できるかもしれません。こうした思想によって、何世紀もの間、力の弱い中央政府の下で多数の封建領地に分けられていた人々が、国民としてのアイデンティティーを持つようになったことは疑う余地がありません。19世紀後期と20世紀初頭には、闘う民族国家の世界、国民としての強いアイデンティティーは国家の生き残りに貢献を果たしました。しかしながら、日本が神からの使命を受けているという思想は、1930年代、1940年代には皇室を正当化するため、また日本の指揮下で大東亜共栄圏を建設することを正当化するためにも利用され、日本をいくつもの悲惨な戦争に向かわせる結果となりました。1945年の敗戦と歴史上初めて日本が外国の力によって占領されたことで、こうした思想は影が薄くなり、しばらくの間は民主主義の話にとって代られました。
しかし、近年になると日本の独自性に対して新たな関心が広く持たれるようになりました。これは「日本人論」や「日本文化論」などの様々な形をとり、最近では日本史をあらためて重視した「新国民史」が現れてきました。世界の大部分の国で自国の歴史が無視されている状況にある現在、これは興味深いことです。またつい最近には、日本の政治の最高幹部から「日本は天皇を中心とした神の国である」という発言、そして「国体」ということばさえ聞かれました。一体、日本では何が起きているのでしょうか。アメリカの「神に選ばれし民」という考えが簡単になくならないように、日本もそうなのでしょう。しかしこの2つの事象には関係があると思われます。日本を含めた世界中の国々にアメリカのようになるようプレッシャーを与えることは、日本や各国の防衛反応を刺激する結果となっています。
今からたった15年前の1985年、私が『徳川時代の宗教』の新しいまえがきを書いた頃は、広く読まれているエズラ・ヴォーゲルの本での予言通り、21世紀には日本が世界一の経済大国になり、アメリカは追いつくために日本を真似る必要があるだろうと予想されていました。