今日までその影響が続いている、何十万人もの人々の生命に触れた運動を創設したのは、この質素な生活を続けて一生涯をこの運動に捧げた男でした。
すでにお話しましたが、梅岩は徳川時代の中頃に社会生活と文化生活の新しい可能性を開いた多くの人の中の一人にしかすぎません。私の同僚でシカゴ大学の日本史の教授であるナジタ・テツオは、当時の大阪の商人の塾であった懐徳堂と蘭学の塾であった適塾について研究し、その蘭学の代表的人物のひとりである緒方洪庵についての論文を書いています。ナジタが関心を抱いたのは西洋の学問をものともしない洪庵の自信でした。洪庵は医学と医学分野において、研究され翻訳されるべき多くの新しい情報があることに興味を持ちました。衛生、運動、食事といった面においては、洪庵は西洋の情報源を無視することができませんでした。つまり、洪庵は西洋化あるいは近代化のためにオランダの本を学んだのではなく、その本の中に活気に溢れ成長しつつある社会にとって有効で適切な情報があったから学んだのです。この他にも徳川時代の中期、後期には創造的な活動が多く生まれています。版画家の葛飾北斎は長寿で、多くの作品を生み出しました。裕福な農家のスポンサーの庇護の下で、北斎は長野の山村に移り住み、自らを「画狂人」と称し、そこで最高傑作のいくつかを制作しました。こうした作品や他の多くの例が示しているのは、鎖国時代の真っ只中に開国の精神が顕著に現れていたということです。大事なのは、インドにしろ中国にしろ西洋にしろ、思想の源ではありません。科学、経済、社会あるいは精神といった当時の問題を考えて解決する上で、こうした思想がいかに力になりえたかということが重要なのです。梅岩は抑圧的で閉鎖的な徳川幕府の下で生きていましたが、開国主義の精神に囲まれていたと言うことができると思います。
日本は西洋以外の国では初めて先進国となり成功を収めましたが、この日本の「現代の奇跡」は、近代以前に源があったはずです。