一般庶民のために新しい可能性への道を開いたのは梅岩だけではありませんが、梅岩の例は非常に生き生きしたものです。梅岩は権力に対抗することには関心を持ちませんでしたが、当時期待された多くの可能性に挑みました。徳川の政治制度は、誰もが生まれた階級の中にとどまり、先祖代々の職業を継ぐという閉じられた階級制度を理想的なものとしていました。しかし、農民の村に生まれたにも関わらず、梅岩は11歳で京都の商家に奉公に行き、自分の所属階級を変えていきました。15歳になると、梅岩はこの仕事をやめ、故郷の村に帰り8年間を過ごしました。幼い頃から奉公している人物が昇進するのは普通でしたが、一度そのキャリアが中断されれば昇進の機会は制限されました。23歳で京都で再び商家に勤めることになった時、梅岩の地位は最も下でした。しかし、梅岩をさらに下の地位に置くようなことが実家で暮らした8年間に起きていました。梅岩は自分の天職は商人としての道ではなく、宗教の師として人生を生きることだと決心したのです。最初、梅岩は神道を普及するために、鈴を鳴らしながら町を歩き周りました。これはあまり成功しませんでしたが、梅岩は仕事の合間に勉学にいそしみ、そして人々が説教をしてほしいと望む宗教的なメッセージとは、禅仏教と朱子の新儒教を結合させたものだということに気付きました。梅岩のこうした行動は色々な点で当時の一般の予想に反したものでした。人々は商人になった農民が宗教家としての素質を持っているとは考えていませんでした。さらに、梅岩の時代には商人と農民も専門的な学問をすることは知られていましたが、きちんとした学問はまだ主に武士階級が占有していました。最終的に、梅岩はその時代のすべてのメジャーな宗教や哲学の伝統の中を動き回り、それらを梅岩独自のひとつの形にまとめ上げました。
若し梅岩が人生に於いて、権威に対して進んでリスクを負うという意思を示さなかったとしても梅岩の教えは同様に非凡であったといえます。