先生門人の性を知れる者に告げて曰、学は為すところ、義か不義かと省みて、義にしたがふのみ。義を積まずして、性を養ふことは、聖人の道にはなき事なりと、常に示したまへり。
先生曰、われ生質理屈者(ウマレツキ)にて、幼年の頃より友にも嫌はれ、只意地の悪きことありしが、十四五歳の頃ふと心付て、是を悲しく思ふより、三十歳の頃は大概なほりたりと思へど、猶言(コトバ)の端にあらはれしが、四十歳のころは、梅の黒焼のごとくにて、少し酸(スメ)があるやうにおぼえしが、五十歳の頃に到りては、意地悪き事は大概なきやうにおもへり。
先生五十歳の頃までは、人に対し居たまふに、何にても意にたがひたる事あれば、にがり顔したまふ様に見えしが、五十余になりたまひては、意に違ひたるか、違はざるかの気色、少しも見えたまはず。六十歳の頃我今は楽になりたりとのたまへり。
先生の母故郷より折々登りたまふことあり。春の頃なれば、祇園清水(ギオンキヨミズ)などへ供し、或は芝居へも伴(トモナ)ひなぐさめたまへり。母へ語りて日、我京都に住むといへども、芝居など見ることはまれなり。其訳は我に因(チナ)み来る人の手本になればなり。母の上京したまへばこそ、かく緩々(ユルユル)と見物するなりとのたまひければ、母も悦びたまひしとなり。
先生三十二歳の時父終りたまひ、母は先生五十二歳の時終りたまへり。喪(モ)に悲しみを尽くしたまふ。
先生の講席へ出る禅尼ありしが、ある年大和巡(ヤマトメグリ)して、女の参るまじき所へ参り、道の記など持来り、先生へ見せければ、其席にて再び来ること勿れとて、退けたまへり。
元文戊午(ツチノエウマ)の夏、先生門人五六人同伴にて但馬へ入湯に行きたまひしが、先生彼地にても昼夜都鄙問答の校合し居たまふ。ある日、門人と共に小船に乗り、瀬戸など見めぐり沖へ出たまひしに、北はかぎりも知らぬ海なるが、俄(ニワカ)に風烈しく吹起りければ、門人大いに驚き恐れける。