性は是天地万物の親と知り、大いに喜びをなしたまへり。其後都にのぼり師にまみえたまひ、礼終りて、師工夫(クフウ)塾せるやと問ひたまふ。先生(コタ)対ふるに、如是如是(ニョゼニョゼ)といひて、きせるにて空を打ちたまひければ、師曰、汝が見たる所は、有(アリ)べがかりの知れたることなり、盲人象を見たる譬(タトエ)のごとく、あるひは尾を見、あるひは足を見るといへども、全体を見ることあたはず。汝我性は天地万物の親と見たる所の目が残りあり、性は目なしにてこそあれ、其目を今一度はなれきたれとありければ、先生それより又日夜寝食を忘れ、工夫したまふこと、一年余を経て、ある夜深更におよび、身つかれ、臥したまひ、夜の明けしをもしらず、臥しゐたまひしに、後の森にて、雀のなく声きこえける。其時腹中は大海の静々(セイセイ)たるごとく、また晴天の如し。其雀の啼ける声は、大海の静々たるに、鵜が水を分けて入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を、離れたまひしとなり。
先生嘗て半年ばかり、師のもとへ立よりたまはざりしかば、或老弟子師へ申すやう、彼はかならず人に秀でたる者なるべし、師あまりにきびしき故、はなれたりと見ゆ、惜哉(オシイカナ)と申しければ、師かれが事はかまふべからずとのたまひて、何の気色もなかりしとなり。
先生師の側に居たまひしに、師曰、汝近年に宿をも持つべし、其用意なく、唯学問ばかりに、月日をすごしてもいかがなりとありしに、先生対へて、吾は長者(チョウジャ)になるべしとのたまへば、師よろこびたまひしとなり。
先生師の看病しゐたまひしに、師たばこをのまんと乞ひたまひければ、先生承り、たばこに火を吸ひつけ、きせるの吸口をそと紙にてぬぐひ、指出したまひければ、大いに師の心にたがひ、師曰、汝がなす所かくのごとくなれば、我が看病を、さぞむさくおもふらんとて、即時に先生を退け出したまへり。其時師の看病する者は、先生唯一人なるに、少しも近付けたまはざりけり。先生力なく次の間へ退き涙をながしゐたまふ。