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人という観点から見ると気がまず先にあり、性は後である。しかし天地の法則という観点から言えば先ず理があって、後に気が生ずる。全体を語る時は理一つであります。理は周く存在するけれども目に見えず、捕捉することも出来ない例として道元禅師の歌がある。その歌は、

世の中は何にたとえん、水鳥の

はし振る露に宿る月影

このように、水鳥のくちばしから飛び散る、微細な水の一滴にも月影は映るのです。理は見えずとも万物の内に備わっていることを知る必要があります。私共が悟りを得て、己の性を知れば神や太極や仏といった究極のものはなくなります。したがって私達が性を会得すれば、儒教、道教、仏教、諸々の宗派や哲人達も皆私共の神の一分社であると判ることになります。ある書物によると日本が一面に神の国なら、広くても実は狭い。ところが小さな微塵の中まで神が宿っているなら狭いといえども実は際限のないものであると。」

行藤氏は「いかにもそうです。」と言って先程の歌を書き留めた。

行藤氏が「門人を導くにはおよそ心を主にして教えるのですか。」と尋ねると梅岩は「そうではありません。私は行いを旨として教えています。」と答え、行藤氏が「それならば五倫を旨として教えるのですか。」と問うと梅岩は「その通りです。」と答えました。

行藤氏が「先生は奥様を持たれない。何か理由でもあるのですか。」と言うと、梅岩は「私は道を広めることを第一に考えています。もし妻子の為にこれが妨げられるとしたら道を失うのではないかと恐れております。ですから私は自分一人で暮らしているのです。」と答えた。

行藤氏は「はたしてそうでしょうか。難しいと言っても妻を娶るのが道ではないでしょうか。先生の教えは専ら五倫を説きます。しかしご自身の行いは五倫に反するのではないでしょうか。」と言うと梅岩は「ええ、しかし貴方のおっしゃることは顔回の心の地位に至ってはじめて可能なことです。子路と冉求は徳は高かったのですが、仕える道を第一として、冉求は季氏の無道な誘いに乗ってしまった。

 

 

 

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