ある人が梅岩に問うて「先生が今の学者を性理に心を寄せずとそしられるのは先生の身持が正しいからでしょうか。もし先生がご自身の身持に小なりと言えども正しくない事がおありなら、彼らを批判することは出来ないのではないでしょうか。」
梅岩はそれに答えて、「私は他人を非難しているのではない。私が嘆くのは学問の意味をしらない者がいるということです。例えば、仮に今ここに主人が殺されてしまった家来が多数いたとしましょう。今の学者は力はあっても仇を打つ気のない者と言えます。私は仇を打つ気はあるのですが、腰のふらついたような人間と言えます。これは学問への出発点が遅かったことと才能に欠けることに原因があるからだと思います。私は力も無く、徳も低く、行いも勇敢ではありません。私はただひそやかに性は善なることを知っているだけなのです。私には人々にこれを伝えんとする志があるのだけれど身分低き者が言うことなので耳を傾ける人々も僅かしかいません。これは丁度臆病な家臣が主人の仇を取りたいと思いつつそれが出来ないようなものです。今の学者は若くから学び、かつ広く学んでいます。だから知識は豊富です。あるいは仕官して世に知られる故に名高く、身分の貴き人も多い。しかし文学に没頭はしても今の学者は堯舜が学問の基礎として、国を治めるに性理を以ってし、あらゆる問題の解決にも性理に従っただけということを知らないのです。学者達がこれを知らないのは力はあっても仇を取ろうとしないことと同じです。是等の人々が性理を知ったならば道を蘇らせることが出来るのに、と思うと残念でなりません。」
梅岩は常日頃から門人達に自分の性を知れと言われていましたが、これを信じる者は二人か三人でした。そんな中にあって斎藤全門は心からこれを信じていて、日夜瞑想工夫に励み、ある晩、フト太鼓の音を聞いて性を知った。この体験によって益々瞑想工夫を凝らした結果、性そのものに突き抜ける境地にまで達することが出来ました。その体験を多くの人々に伝えようと努めましたが中々多くの人に伝えることは困難でした。