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梅岩が出講したところとして大阪・河内・和泉などがある。大阪には足繁く講釈に赴かれた。京都でも所を替えて、三十日あるいは五十日の長い連続講釈を数度行った。

自宅でも朝は毎日、そして夕刻は一日おきに講席を開いた。この他、月に三度は会合を持ち、あらかじめ門人に設問を与えておき、その時に発表させて、自らも問答に加わり、最終的な解釈判断を下した。日ごろから説いていた教科書は、四書・孝経・小学・易経・詩経・太極図説・近思録・性理字義・老子・荘子・和論語・徒然草等であった。

 

常日頃から梅岩は夜明け前に起床し、手洗いし、戸を開け、部屋を掃き清め、羽織袴を身に着けた。次いで、又手洗いし、うやうやしく新たに燈明を献じ、天照皇太神宮・荒神様氏神様・大聖文宣王・阿弥陀・釈迦・師・先祖・父母を拝した。それらを終えて腰を降ろして食事を取った。一口毎に感謝し、食事を終えると口を漱(スス)ぎ、少し休息を取られてからその日の講釈を始めた。暮時もまた掃除し、手洗いし、燈を献じて朝方と同様に拝し、四日から五日に一度はいつも家中を掃除し、柱・敷居等を拭いた。朝の講釈は夜明けから始まり、辰(タツ)の刻に終わった。夕刻の講釈は日暮れから戌(イヌ)の刻まで続いた。朝の講釈の前には湯を飲み、夜の講釈の前には茶を飲み、煙草盆の火入れ毎に火をいけ、日中は訪ねる人多く、決まった時以外にも講釈を所望する者もいた。毎晩亥(イ)の刻まで門人が集まって、その日の講釈の理解しがたい点を研究討論した。このように昼夜多忙の日々であった。梅岩は時間があれば机に向かい書物を読み、時として持病で眠気を催すことがあると座を立って掃除などをした。眠気がされば、また机に向かい、再び書物を読んだ。夏の短い夜など門人全て家路についた後まで書物を読み、子(ネ)の刻前に床に着くことはなかった。冬の夜はたいがい丑(ウシ)の刻まで書物を読むのが常であった。

梅岩の衣類は夏は、日常は布を着用し、祝日の晴着には奈良晒布、冬は日常は木綿、祝日は紬(ツムギ)を着用した。

 

 

 

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