その時、了雲の世話をするのは梅岩一人だったのだが、師に全く近づくことが出来ず、肩を落として隣の部屋に引き下がり、涙をながしていた。翌朝、一人の年配の門人が来て、梅岩の誤りを了雲に謝し、許しを請うたので、ようやく再び仕えることとなった。そして一日か二日後に了雲の身体の具合が急に悪くなり、自らの死期を悟った了雲は「私が書き入れをした書物を全部お前に譲ろう。」と梅岩に言ったので、梅岩は「結構です。」と応えた。了雲が「どうしていらないのだ。」と尋ねると、梅岩は「事に望んでは自分の言葉で述べます。」と答えた。師の了雲はこれを聞いて大いにこれを誉め称えた。
梅岩の故郷、東懸村は前も後も山である。梅岩の母上はこよなく蓮の花を好まれたが、そんな山間では、近くに蓮の咲く所はなかった。ところが、家の庭先の山の端に少しばかりの沼地があった。そこは蓮が育ちそうにもないところだったが、ある年、蓮の茎が芽吹き、母上は大そう喜ばれた。翌年、立派な白い蓮の花が咲いた。それと時を同じくして梅岩は講席を開いたということである。
梅岩、四十三歳の時、京都車屋町御池東上ル東側の地に居を構え、初めて講席を開いた。門前に口上書を掲げた。それには、 「何月何日開講。席銭入り申さず。ご存知ない方も御望みならば遠慮なくお上がり、御聴講下さい。」と書いてあった。何処で講釈する時もこの口上書を掲げ、席は男女別に仕切られ、婦女席には簾が懸けられていた。元文二年(一七三七)の春、堺町通六角下ル東側に居を移した。最初に車屋町に講席を構えた時には聴衆は、二人三人あるいは五人六人を超えることはなかった。朝も夕刻もそんな具合であった。ある時、親しい友人一人のみが聞き手ということもあったけれども、その一人に向かって講釈を行った。ある晩、講席に聞き手が一人しかなく「他に聴衆がなく、今晩は私一人が聞き手では講釈も大変でしょう。今晩は中止しましょう。」と言うと、梅岩は「講釈を始めてしまえば見台しかみえません。一人でも聞き手がいれば満足です。」と応えて講釈を続けたということです。