そこで梅岩は「私の志はそういうことではありません。私は学んで古の聖人の行いをよく知り、周く人の手本となりたいと思います。」と答えた。その人は「確かにそれは立派な志しだ。」と誉め称えた。
奉公先の主(アルジ)の母は継母(後妻)でしたが、その人となりは貞節にして類希(タグイ)なる人物であった。ある時、梅岩が縮緬(チリメン)の羽織を着て行くと主の母は「絹の羽織を着ればよいではないか。」と言った。梅岩はこれに対して「以前はそう思ったこともありました。しかし羽織はこれ一つだけです。これを売って、もう一着買い替えるとお金もかかりますからずっとこれを着ています。」と答えたので主の母は「それでは縮緬も絹も同じだね。」と言って許してくれた。奉公先の家は本願寺門徒で、その開祖を信仰していたので奉公人まで寺にお参りに行かされたが梅岩は寺には行かない上に時々逆に主の母に神道を説いた。年の行った奉公人が主の母に勘平は神道を学んでいて浄土真宗には疎(ウト)いと語ったところ「勘平の神道への志は格別である。寺へ行かずとも、あれには誠の信仰がある。勘平のことはかまうなよ。」と答えたのだった。後にこの母、病んで日々容態が悪くなるに及んで女中に「私は思い遺すことは何も無いけれども、一つ心残りなのは勘平の立派な行く末を長生きして見ることが出来ないことです。」と言い残された。
梅岩は、三十五、六歳の頃までに性(真理)を知ったと思っていたが、その後、再びその性に疑いが起こった。あちこち師を訪ねてみてもどこにもこれぞと思われる人物には巡り合うことが出来なかった。時が流れ、小栗了雲に出会い、梅岩は自説を述べようとした。ところが、卵で岩を打つがごとき感がして梅岩は自説を述べることが出来なかった。それより、この人だ、と思い、以後了雲を師と仰いで仕えた。その後、梅岩は昼夜を問わずに楽しみをもとめず、精神を集中して、ひたすら瞑想工夫に励んだ。こうして一年半ほどがすぎた。