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石田梅岩の生涯

―『石田先生事蹟』の現代語訳―

 

石田梅岩は貞享二年(一六八五)九月十五日、丹波国桑田郡東縣村に生まれた。名は興長、別名を梅岩と称した。呼び名は勘平と言い、石田氏の出である。父は隠居剃髪して浄心と言い、母は角氏(カドウジ)の娘であった。梅岩の性格は真っ当にして才も抜ん出ていた。父親から授かった教育も厳格なものであった。一例を上げれば、梅岩(当時は勘平)十歳の頃、父の山へ行った折に栗の実を五つ六つ拾って帰ってくると、丁度昼食時で自分の席についてその栗の実を父に見せた。すると、父は「何処で拾って来たか。」と尋ねた。勘平が「父上の山と隣の山の境からです。」と答えると、父は「うちの栗の木は山の境までは枝を伸ばしていない。隣の栗の枝が境まで来ている。これは隣の山の栗の実に違いない。」と言い、勘平がそれに気がづかずに、栗の実を拾ってきたことを戒め、すぐに食事を止めさせ、「この栗を元の場所に返して来なさい。」と言った。勘平は父の言う通り、すぐさま栗の実を元の場所に戻しに行きました。

 

梅岩二十三歳の時に京に上り、上京(カミギョウ)のある商家の奉公に出た。これは梅岩にとって二度目の奉公であった。梅岩は当初、神道に大変熱心で、何とかして神道を講じ弘めたいと志していた。もし聴衆がいない時には町中を鈴を鳴らして歩き回ってでも人の道を説くことを切望した。このために下京(シモギョウ)へ仕事に行く時も懐に書物を携え、僅かな時間も惜しんで勉学に励んだ。朝は同僚の起きる前に二階の窓に向かって書物を読み、夜は皆が寝静まった後に読書に励んだ。しかも仕事を疎かにすることはなかった。その奉公先で頭分になってからも、冬の夜は暖かい所は人に譲り、端の方で寝た。更に夏の夜は布団を蹴飛ばす奉公人のために、度々起きて、掛け直してやった。

奉公先の店の仲間内で博識な者が梅岩に向かってどうして学問を好むのか、梅岩の志を問うた。梅岩はまず、「あなたの志は何ですか。」と尋ね返すとその者は「広く学んで世間のことを広く知り、物知りになりたい。これが私の望みです。」と言った。

 

 

 

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