最近、ディジタル・デバイドということが言われますが、ディジタル以前でも、グローバリゼーションでむしろ世界の貧富の差が広がりつつあると言えます。地域戦争とか原理主義の台頭とかテロの横行とか、こういうものがすべて貧困が原因でないにせよ、グローバリゼーションの結果としての貧富の差の拡大というのが、安定的な世界秩序の構築を脅かしているということは言えるのではないかと思います。今年行われましたダボスにおけるワールド・エコノミック・フォーラムの1つの大きな特徴は、南の国の代表がグローバリゼーションを批判し、開発の重要性を改めて強調したことだと報じられております。近代化というのは、南の国のアスピレーションでありまして、日本がこういう国々のアスピレーションにこたえるのに最適な位置にいることは間違いないところであります。
ブレジンスキーは、日本は地域大国になるのではなくて国際大国になるべきだということを言っておりますけれども、世界が直面する一番大きな国際問題の1つが南北問題でありまして、日本がそういう意味で南の国の開発に協力、貢献するということは、日本の使命ではないかと考えます。
ちなみに、高坂正堯が1964年9月の中央公論で「海洋国家日本の構想」を発表したときに、日本として何をやるべきかということで2つ言っておりまして、1つが海洋の開発であり、1つが開発途上国の開発でありました。
世界的な秩序のレベルで第2に日本がすべきことは、超近代文明への貢献であります。伊藤憲一理事長が著書『超近代の衝撃』の中で、いろいろな意味で近代文明が行き詰まっていることも指摘されておりますが、その後に来るべき超近代文明の特色として指摘されているのが、異端や多様性に寛容な諸文明の共生、あるいは、このような共生を通じて真の意味での世界文明の誕生をもたらすものということであります。実は日本の文化あるいは文明の中には、そういった意味でのこれから生まれてくるであろう文明に貢献できる要素というのが幾つかあるということが言われております。
例えば、和を重んずる寛容な精神があります。欧米のとことんまでの合理主義、個人主義が行き詰まった、その後に来る文明では、やはりこのような寛容さというのが非常に重要で、それを日本人は昔から持っているのではないかというわけです。日本は知的貢献というのは非常に苦手で、最近「言力」といわれる知的発信力に弱いですけれども、もし日本がこういう面で貢献ができれば、文明の歴史に日本が名をとどめることになるのではないかと思います。