では、その特殊なカルチャーとは一体何なんですか?
結局、私見としては、言語音声学の分野で論理的に理解することが一番つじつまが合うと考えるのです。欧米は言語による議論・討論がカルチャーの原点でありますね。英語をはじめとする欧米言語は、文字は単なる音声記号であり、たかだか26文字前後だから音声で区別しなければ意味が通じない。文化が進み、語彙が増えればますます、実際に喋る言語の音声数が豊富になり、「口」も「身体」も「腹筋」も使い、喋ることが一つの運動機能となったのです。目まぐるしく喋りまくる口運動で、口まわりに快感機能が走るようになり、唇でキスするコミュニケーション手段も生まれた。その快感によって、心に余裕も生まれ、反対意見の討論も可能となり、相手を認め合う民主主義、自由主義も生まれたのです。これが欧米の言語カルチャーの原点です。
日本人の場合はどうか。日本語は音声数が少ないから、いくら喋っても口に快感なんかは来ない。従って議論はあまりしないから、全くの討論下手だ。反対意見同士の討論は、全く相手を認めない。相手を認めるどころでない。相手の顔を見るのも嫌となる。その結果、無視する!キレる!の現象が起こる。
日本語は世界で一番言語音声数が少ない言語なので、従って日本人は、口の先だけで楽に喋れる母語を持っているのです。
口が楽をした分、その余裕で目の神経に余力を振り向けた。喋る時も、食べる時も、色々な行動に於いても、視力をきめ細かく使うようになっていった。日本人は喋りながら目でまわりに気を遣い、頷きあい、同意を求めながら喋る。世界で一番“相づち”が多い言語が日本語です。そこから“和”というものが生まれてきたのだと思う。日本の古い文化習慣の教育から、そのような日本人の行動が発生したのではありません。
欧米の『口の習慣』を日本の『目の習慣』に置き換えて真似たのが、精密機器の大量生産となって、現在の経済大国の成功に結びついたと言えば分かりやすいでしょう。
問題は、戦後に、日本人が全く持たない欧米言語の基本音声カルチャーのままで導入してしまった自由主義です。日本人は何の現実感も経験もなしに、自由主義を“ただ貰い”してしまったとなれば、先程伊藤先生が仰ったとおり、行き過ぎた“勝手主義”になったり、反対に個の確立が全く足りなかったりしてしまうのもやむを得ない。絶対にそうなってしまうに決まっているのです。
海洋国家としての日本が世界に伍して対応してゆく時、「憧れ」や「真似」だけでなく、欧米やアジアの言語異カルチャーと、日本語カルチャーとの違いをはっきりと把握して、その本当の違いを対比して、各々の国との付き合い方を上手に演出をして、堂々と世界と渡り合ってゆく術を図らずして、「グローバルな対応」などと美辞麗句で、軽々しく言うべきでないと思う。