このように中世と近代では価値観が違うわけですが、今、我々が近代的あるいは西欧的な価値観のマイナス面をつきつけられて、人類にとって解決しなければならないいろいろな問題と直面するとき、特に成長信仰というものが、限りなく肥大していけばGNPは限りなく増大して、それに伴ってエネルギー消費、食糧消費、人口増、そして環境悪化といった墓穴をみずから掘っていくことになるわけですが、これを何とかしなければならないと思うときに、その解決策を示唆してくれるものというのは、実は近代的なものとまったく異質なものであるわけで、それが中世的な英知なのです。中世はもちろんいろいろと問題もあったけれども、その点を捨象すれば、近代に対するオールタナティブとしての意味は否定できないわけです。
それから、西欧的な発想とまったく違った発想、それは非西欧世界の発想であり、英知なのですが、それに頼らなければならない場面も出てきていると思うのです。もちろんいろいろなマイナス面もあるのだけれども、それを捨象すれば、西欧のもたらした、例えば行き過ぎた個人主義による社会とか家族の崩壊に対して、どう対応しようかというとき、やっぱりそれは非西欧、例えば「アジアの価値」なのかもしれないわけで、したがって、ただ単純に「エイシャン・バリューはいいのか、悪いのか」と聞くのではなくて、それから「西欧化でない近代化があるのか」と問うのではなくて、「いかなる問題に対する解決方法としていかなる発想や提言があるのか」という観点から、私はこの問題を考えないと、議論がすれ違ってしまうのではないかと思う次第です。
それからもう一つ、言えることは、その提言に基づいて問題を処理するとよい結果が出るということがないと、つまり結果がよければ支持されるし、結果がよくなければ問題があると言われるわけで、そういう意味では「東アジアの奇跡」と言われたときは、「エイシャン・バリュー」があるからと言われ、「アジアの経済危機」になると、「やっばりエイシャン・バリューではだめだ」と言われるわけです。ある程度はやむを得ないことなわけで、そういう実績によって証明していくよりない。その観点からいうと、日本がほんとうに21世紀の南北問題解決のモデルになり得るのかどうかということは、我々自身が日本の国内において、日本人自身の社会において、21世紀の世界のモデルとなり得るような国家・社会建設ができるかどうか、そして、それをつくることこそが実は世界に対する日本の貢献になるのだということではないか、そういうふうに私は感じるのです。