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伊藤憲一(進行司会者) どうもありがとうございました。この議論をしばらく深めたいと思うのですが、遠藤さん、もしその議論なら今、どうぞ。

遠藤浩一 江畑さんから「西欧化でない近代化はありうるのか」というご指摘がありましたが、私はむしろ「西欧化にとどまらない近代化」を追求すべき時期に来ていると痛感しているんです。近代化というものを西欧化と同一視してきたことの限界が、いろいろな分野で顕著になっている。今、どれだけの人が西欧社会の延長線上に世界像を描くことができるでしょうか。西欧化すれば世界中が幸福になれると信じているでしょうか。甚だ疑問です。いかにして「近代」を「西欧」という埒から解放させるか、それこそが今突き付けられている課題だと思われます。

そのときに、寛容性や自然との共生観といった日本的価値観が大きく寄与するのではないかというのが太田さんの議論ではなかったかと思います。僕はこの見解に賛成です。最近科学技術の世界でも複雑系という概念が重視されるようになりました。ファジーやニューロ、ゆらぎといった、これまでの合理主義とは一線を画したコンセプトが科学技術の世界で最重要視されるようになったのは、まさに「近代化」が「西洋化」から脱却し始めたことの顕著な現れではないか。そういった洗練されたテクノロジーの現場で最も貢献しているのが、実は日本の産業界なんですね。ということは、われわれは既に「西洋化にとどまらない近代化」の入口に入っているということです。

ところで、太田さんの言われた「開かれた国益の追求」こそが、この三期にわたるセミナーの中核的テーマだったと私は思っています。つまり大切なのは日本の国益の追求が他の多くの国々にとっても決して不利益にはならないようにすること、そのために日本は海洋国家としてより開かれていく必要があるということでしょう。まったくその通りで、そこにしか日本が生き残る道はない。

ただ、そのときに併せて大切なのは「開かれたナショナリズムの追求」だと思うんですね。ナショナリズムの暴走を抑止するためにも、ナショナリズムの涵養は不可欠でしょう。日本の外交は朝貢外交であるとか謝罪外交、腰砕け外交などと言われますが、謝罪の強要が外交カードとして通用し、日本もそれを唯々諾々と受け入れることが常態化している。こういう、普通の国にあるまじき特殊な外交態度を続けていると、必ず国民のフラストレーションは蓄積し、いつかそれは爆発する。そうならないようにするためにも、普通の国家の普通の国民としてのナショナリズムを涵養し、それに立脚した外交その他の国策を追求していかなければならない。開かれた国益の追求とは、すなわち開かれたナショナリズムの追求であり、それなしに海洋国家としての展望は拓けないと思います。

 

 

 

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