古くはローマ時代から、インドとローマは海を介して交易を行っていました。南インドのツチコリンや、その他多くの港からはローマの貨幣がたくさん出ております。そして、この延長線上にあったのが、13〜15世紀のインド洋貿易です。
では、インド洋貿易とはどんなものだったか。アジアの国々とインド、そしてアフリカ東海岸を海路でつなぐ大規模な交易ネットワーク、と言えばいいでしょうか。今日のASEAN諸国からインド、スリランカ、インド西岸、アラビア半島の港を経由して、東アフリカのマリンディ、モガディシオ、ソファラといった港までが繋がれたネットワークです。この交易網を活用したのはほとんどインドやアラビアの商人たちですが、その掉尾を飾るのは、中国、明の鄭和が率いた大船団でした。鄭和はイスラム教徒で、中国に帰化した外国人ということです。彼が組織した船団は、なんと200隻を超える大船団で、総勢20,000人。船のなかには長さが150メートル、幅60メートルもある巨大なものもあったといいます。
こうしたネットワークの存在をよく証明しているのが、東アフリカのジンバブエの遺跡です。「グレート・ジンバブエ」と呼ばれるこの遣跡は、ただ石を積んだだけの建造物で――ジンバブエというのは、石の家、という意味です――非常に不思議な建築方法なんですが、最初にここを発掘した西洋人の考古学者たちは、こんな精巧な建築は黒人にできるわけがないと言って、ギリシア人あたりがここへ来て造ったんじゃないか、などという説を唱えておりました。しかし、調査がすすみ、これは黒人王国の遣産であるということがはっきりした。
しかし、なにより考古学者を驚かせたのは、この遺跡からやたらに中国の陶磁器が出てくることでした。宋、元、明時代のものです。しかも、こうした陶磁器はジンバブエだけではなく、先ほど挙げたようなアフリカ東海岸の港町からも続々と出てきたわけです。インド洋貿易の証拠品の数々ですね。アフリカからは象牙や香料、金などが中国へもたらされました。
15世紀初頭から世紀の半ばまで、鄭和は計7回にわたってインド洋航海を行いました。1492年のコロンブスのアメリカ到達に始まるヨーロッパの大航海時代に、ほぼ100年ほど先んじていたわけです。
バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って東アフリカに達したとき、彼は3階建て、4階建ての立派な建物が並ぶ東アフリカの港町の立派さに驚いたといいます。同じように、東アフリカの黒人たちも、それ以上にびっくりした。