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2] 課題

5月の新茶の季節になると、マスコミで手摘み手揉みの風景をとりあげるが、現実には伝承行事となりつつある。実際、入間市には手揉み保存会があり、各地のお茶のイベントに参加している。

狭山茶の販売は、ほとんどが産直販売である。しかし、昭和50年代から、待つ姿勢の店舗販売では立ち行かなくなり、各家で販売ルートの拡大に努めている。この販売競争の激化から、店舗をやめ生葉生産者になる農家もある。

また、遺産相続で圃場を売るケースも出始め、入間市の広いお茶畑のところどころに空き地が目立ち始めている。

お茶はチャドクガなどの虫がつきやすいため、農薬の散布が欠かせない。しかし、丘陵周辺、特に東京都では茶園のそばまで住宅がせまり、農薬散布が問題となっている。そこで、試験場では新品種の開発、農薬の研究、防虫対策のための新案の研究などを行い普及させるとともに、情報を発信し理解を得られるよう努力している。

お茶に関しては、過渡期にあるように思われる。健康食品への指向性が強まり、飲料にこだわらない活用が食品業界、消費者から求められている。

(3)村山大島紬

1] 現状

狭山丘陵周辺では、古くから養蚕が行われ、機織りは農閑期の重要な女性の仕事であり、たしなみでもあった。江戸時代には綿花の栽培や藍の生産もさかんで、江戸で木綿絣の需要が増えると、家内用ではなく村山絣、所沢絣などとして生産されるようになった。

武蔵村山市周辺では、明治期には紬、銘仙などの絹織物も生産量を延ばし、大正時代には本格的な大島式銘仙の研究が始まり、綿織物から現在の絹織物の大島絣へと大きく転換した。村山大島紬は当時から各行程で分業され、おもにカジュアルな着物と羽織のアンサンブルの生産をしている。

 

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写真II-3 板締め染色の様子(武蔵村山市)

 

村山大島紬は大消費地東京をひかえていること、本場大島紬より安価であること、新製品の開発努力に励んだことなどから、昭和9年には、45万反を超える生産量を記録した。昭和4年には村山織物同業組合(現村山織物協同組合)が結成され、東京都の北多摩一帯、瑞穂町、埼玉県の入間市、飯能市から237社の組合員があった。

 

 

 

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