江戸時代、争乱で低迷していた狭山茶を復興させたのは、1800年初頭、狭山丘陵の西部、入間市宮寺に住む吉川温恭と村野盛政で、彼らが試行錯誤の末に京都宇治の煎茶製法を習得、江戸の山本山と取引きを始めたことによるといわれる。大消費地である江戸に近く、さらに街道からも近いという立地で、販路の拡大に成功、茶の産地として知れるところとなった。現在でこそ、丘陵周辺では茶の畝が整然と並ぶ本茶園が広がっているが、戦前までは、畑の土が飛散することを防ぐためしきりに植えられた畦畔茶で、各農家が製茶し、仲買人が農家をまわって買いとっていった。茶生産は現金収入のみこめる重要な農家の副業であった。
お茶が生糸と並ぶ日本の主要輸出品となると、生糸問屋の多い八王子に近いことから狭山茶は八王子商人の手で横浜に運ばれて取引きされるようになり、明治時代には「八茶」とよばれ、その産地として急速に拡大していった。
1885年には埼玉県平沢村(現日高市)の高林謙三が全国に先駆けて製茶機械を発明したが、狭山茶生産地では手揉み茶が良しとされ、取り入れられなかった。この機械をいち早く取り入れたのが静岡県で、急激に生産量を増やし、現在は全国一の生産量を誇っている(図II-2-5)。
戦後になると、人手をかけず生産量を増やすため、行政の指導もあり、機械化を前提とした圃場整備、製茶行程への機械の導入が進められた。現在、茶園は本茶園となり、農家は製茶工場と店舗をもつ茶専業者と、生葉を業者や協同組合へ売る生葉生産者に分かれている。