(3)かつての農業や暮らしと丘陵
地図の変遷を見ても、過去において、丘陵は農業や農家生活との密接な関係があったことは理解できるが、さらに狭山丘陵が周辺の農業や農業環境を支えてきた古老を対象に聞き取りの一部を紹介し、ここからかつての丘陵周辺の農業概要をつかむこととした。また、農業やこの地域で暮らすための知恵を紹介する。
1] 丘陵付近の農業の変遷
a. 近代初期の農業
狭山丘陵北麓すなわち、入間市や所沢市における明治20年代初頭の記録から、近代初期の農業の様子を垣間見ることができる。
埼玉県の初代県知事であった白根太助が編纂させた『武蔵国郡村誌』によれば、明治初期の農産物としてあげられるものとしては、穀類として陸稲・大麦・小麦・粟・稗・そばなどがあり、豆類としては大豆・小豆・えんどうがある。また蔬菜類としてはさつま芋・大根・かぶ・里芋・人参・ごぼうなどがある。さらにお茶や繭の出荷量は実に多い。ごまや藍・木綿などの栽培があったこともわかる。
狭山丘陵の南麓においては、近代初期の記録を調査しえなかった。養蚕・茶は、地図からは十分に発達していたことは掌握できなかったものの、その後の発展の様子から、すでにその萌芽はあったと見てよいと思われるし、他の作付けも聞き取れた僅かな記憶から、北麓の村々に近似していたものと思われる。
b. 茶業の発達
地図には茶園は少ないが、畦に植えられた風よけや土の流出をよける目的で植えられた畦畔茶が、生産のかなりの量をになっていたと思われる。絹と並んで換金作物として、近代農村では重要な位置を示していた。
この地方の茶の歴史は古い。狭山丘陵に接した入間市宮寺地区の出雲祝神社の境内に天保7年(1836)に建立された「重闢茶場碑」には、狭山茶の由来が刻まれており、この地域では江戸時代から茶業が盛んであったことがわかる。これによれば、鎌倉時代からこの地方では茶が生産されていたが、戦国の戦乱により廃れ、江戸時代天明年間から寛政年間にかけて再び復活し、文化・文政期には茶の製造を営む家は50戸を超えるようになったことが記されている。そしてこの碑の建立者が碑文の裏面に記載されているが、これによれば、現在の入間市や所沢市はもとより、青梅市・昭島市などの現在の東京都側の人々の名も見える。また、江戸におけるこの地方のお茶の取引先であり、狭山茶の名付親でもある江戸日本橋の山本嘉兵衛(現在の日本橋山本屋)の名も見える。