b. 丘陵の南麓の様子
明治の迅速図を見ると、丘陵の南麓には、東から久米川村、野口村、廻田村、清水村、狭山村、奈良橋村、蔵敷村、芋久保村、中藤村、横田村などの集落が丘陵の麓に寄り添うように見られる。特に狭山村から西に広がる村々の集落は丘陵の麓さらには低位になった丘陵の斜面に密着している。北麓の集落はやや離れた場所に集落を形成してきたが、ずいぶんと異なる様相を呈する。南斜面の山裾は、風を遮り、日溜まりを形成することと、飲料水をはじめ水の確保がしやすいという点など、暮らしやすさがあったのであろう。また、街道に沿ってほぼ路村の形をしているのも北麓とは異なる景観である。南麓の村々は、自然発生的な村々ではなく、丘陵南麓から南に広がる台地帯を開拓した村々であり、ほぼ街道に沿った屋敷幅を南に畑を開墾してできあがった村であることがわかる。さらにこれら村々の開墾地の先、つまり南方には、江戸時代に幕府が中心となって実施した武蔵野の開拓の村々が、青梅街道や五日市街道に沿って広がっている。
南麓の村々の周辺に広がる畑を見ると、僅かに茶畑と桑畑は見出せるが、北麓の畑にくらべれば極めて少ない。記録によれば麦・陸稲・さつま芋などの作付けが中心であったようである。さらに南方の青梅街道に沿った小川新田や五日市街道に沿った廻田新田や鈴木新田・野中新田・榎戸新田・中藤新田・砂川村などには、桑畑が広く広がる。
また、これら南麓の村々には、麓下に水田の存在が目に付く。すでに現在水没した村山貯水池付近や山口貯水池付近の集落の持つほとんどの耕地が、柳瀬川の支流である北川の水や湧水を利用した水田で、その谷を出る付近の久米川村・野口村にもかなり広く水田が経営されていた。廻田村、清水村、中藤村、.横田村、岸村にも水田が見てとれ、中藤村や岸村の水田は比較的広範囲に存在した。
狭山丘陵南面の樹木は、奈良橋村から蔵敷村付近にアカマツが目立つが、他は雑木(雑樹)である。
現在の地図で、丘陵の内部や南麓の様子をみると、かつてのような広大な畑や水田を探すことは困難である。内部の谷には多摩湖(村山貯水池)が存在感をもって位置し、その堤下ぎりぎりまで開発が進行している。また、南麓もほとんどが開発され、住宅や工場や産業関連施設となってしまって、畑は都市化のなかに肩身を狭くする。現在の東村山市、東大和市、武蔵村山市付近には、住宅地に挟まれるように、1haから2haの広がりを持つ畑が目立つ。また、そうした畑には植木や栗・梅などの樹園が目につく。また、武蔵村山市の中藤地区には生産緑地ではあるが水田が経営され、貴重な存在となっている。