鎌倉時代においては禅宗あるいは薬湯として利用されるにすぎなかったが、江戸時代の元禄以降、喫茶の習慣が広まるにつれて多用されるようになった。特に換金作物としての位置を持つようになってくるのは、先に示した碑文からも理解できるように文化・文政期ころからのようである。さらに茶は、江戸末期の開国以降、茶園として独立した圃場が徐々にながら増え、やがて大正年間には、各地に製茶組合などが成立する。狭山丘陵付近は、現在の入間市や所沢市を中心に、東京都側にも隆盛してくる。このころになると、茶園を持つ農家は急増する。
なぜ狭山茶が特産化したかという背景について、聞きとりから得られたことを付記しておく。まず、茶は風や雨に流出しやすい畑の畦畔に植えられたことがあげられるが、そればかりでなく川霧が茶によいことがあげられる。入間市には入間川や霞川が流れ、これらが発生させる川霧は日光を程よく遮り、茶葉は柔らかく仕上がるという。茶業や茶園は、山丘陵の南麓の東京都側にも明治のころから発達するが、殊に増加するのは多摩湖や狭山湖ができてからだという。狭山湖や多摩湖から発生する霧が、川霧と同じ役割をするようになってからだという。
c. 養蚕の発展
養蚕は、明治初期には春と夏の2回だけの繭生産であったが、やがて明治20年代には秋蚕が加わり、ますます盛んになる。先に示した明治の迅速図をみると、明治10年代後半期には桑畑が多く見られたことが理解できた。さらに養蚕は、古老の話によれば、明治後半から大正期には年3回(春蚕・初秋・晩秋)、戦後はこれに夏蚕や晩晩秋が加わり、年5回も行ったと聞く。養蚕は換金作物として農家にとっては不可欠なものであったようである。
東村山での聞き取りでは、絹は昭和恐慌(昭和4年)時には大暴落したが、その後パラシュートなどの材料として供給され、戦中も盛んであったとのことである。また、戦後も昭和30年代までは盛んに行われ、農家の大事な換金作物であったという。
ちなみに、所沢市誌によれば、昭和30年には934戸が養蚕をおこなっていたが、昭和59年には83戸と激減したとある。
中国産の絹や化繊の普及は、絹の価値を下げていった。戦後、親から引き継いで養蚕をやりつづけてきたという人の話によれば、繭は平成1年が最高の相場であったという。中国産の絹が不作で、久々に国内産に目が向けられた。しかし、その後は泣かず飛ばずであった。平成6年に養蚕は止めたとのことであった。ちなみに埼玉県では平成10年度いっぱいで、蚕糸研究所を閉鎖した。
d. 木綿と藍
藍や木綿は、所沢絣、村山絣さらには青梅絣などの地場産業に提供されたものと思われるし、賃機といって、農作業の合間や夜なべ仕事で、各農家では機織が行われていたようである。また、加工農業として、生産された藍を発酵させて藍玉にして出荷したという家も多い。これらを証左するように、民具調査をすると機織器や藍甕を残す家は多い。しかし、明治末期になると豊田自動織機の発明により、機織も工業化が進み、絣の地場産業は機械化の方向をとってくる。この付近では、大型の工業化というよりも中小規模の機織工場ではあるが、工業化に変わってくる。家内仕事の賃機は少なくなり、藍・木綿の生産も、かつてほどではなく低迷してくる。