市域が広大であるので、狭山丘陵に接する宮寺地区のデータで様子をみる。宮寺地区は、かつて宮寺村、二本木村として独立していた地区である。この地域の農家個数は平成7年段階で382戸、そのうち専業農家は39戸、農業を主とする兼業農家は20戸と周辺地域に比べ高い率を保っている。また、同年の調査における耕作面積をみると、1ha以上の大型農家は54戸もある。ちなみに2から2.5haの耕作地を持つ農家は3軒、2.5から3haの農家は2軒、3から5haの農家が2軒ある。この地区の農業は、茶葉の栽培と自家製茶が多いが、葉菜としてのほうれん草や白菜、根菜として大根、芋類として里芋なども多く生産されており、農業が活発な地域といえる。しかし、国道16号線に沿った付近には、流通関連やサービス業が進出している。また、この地域の16号から北側には工業団地が大規模に誘致されているが、戦前この付近には軍の飛行訓練施設があって、戦後は茶栽培を中心とする農地が広がっていたところであるやがて、戦後の産業構造の変化を受け工業団地になった。また、ここには現在入間市が力を入れている茶産業を展示の中心にすえた入間市立博物館アリットが開館した。
2] 丘陵および周辺の原風景(明治初期の地図から)
狭山丘陵のほぼ中央から東域と北・南を含む、明治13年から19年に測量された地図(陸軍測量部作成迅速図)を図II-2-2に掲示した。およそ100年という時間を超えた変化・変容が見て取れる明治の陸軍迅速図は、狭山丘陵周辺の原風景とでもいうような丘陵と水田や畑が広がる農村風景を想起させる。ここでは、この地図をみながら狭山丘陵周辺の農業環境の基本形と将来を探るヒントを探し出したい。かつては、農業も暮らしも、その地域の自然環境に制約され、かつその環境を知り抜き、無理のない土地利用が実施されてきた。ことに農業は、地域の基本的な環境を無視して成立するものでないから、こうした地域の原風景を探っておかなければ、地域の農業の将来像、さらには町づくりのあり方は模索できないと確信するからである。
a. 丘陵北麓の明治初期の様子
明治の陸軍迅速図から、まず丘陵の北麓の様子をみる。
丘陵の北東側に所沢村を見つけることができる。まるで蜘蛛の巣の中心部のように、所沢村に寄り集まった道に沿って集落が開けている。狭山丘陵周辺では一番大きな集落である東西わずか1km、幅500mほどの決して大きくない集落であるが、周辺の村々に比べれば大きく、また、周辺の村落からの道が所沢村に寄り集まることからも、この付近の中心的村落であったことが理解できるまるで、砂漠のオアシスのような集落である。
所沢村から丘陵の北を西方、すなわち青梅村方向に向かうと、およそ1kmから2kmの距離をもって小規模な集落が点在する。上新井村、北野村、三ヶ島村(以上現所沢市)、宮寺村(現入間市)と続く。集落のそれぞれの家の背景に屋敷林があり、その樹林がまるで海に浮かぶ小島のように見えたに違いない。丘陵北麓の村々は、南麓の村に比べ、丘陵からはやや離れた場所に集落が位置することがわかる。丘陵の裾からは500mぐらい離れて集落が形成されている。狭山丘陵の山影をさけた集落づくりと思われる。これらの村々の周りには、畑が広く広がる遮るものはなく、どの畑からも狭山丘陵が望まれたに違いない。狭山丘陵の四季の移ろいはこの農村の暮らしと密接な関係にあったと思われる。