代表的な遺跡に、埼玉県所沢市の山下後遺跡や宮前(みやまえ)遺跡、畦(あぜ)の前遺跡、お伊勢山遺跡などが、また東京都瑞穂町の六道山遺跡や、浅間谷(せんげんやつ)遺跡など、武蔵村山市の野山(のやま)第3遺跡や吉祥山遺跡、屋敷山遺跡など、東大和市の八幡谷戸遺跡、多摩湖第11遺跡など、東村山市の中の割遺跡などがそれぞれ確認されている。
前期の狭山丘陵周辺の遺跡のあり方は、遺跡数は早期とほとんど同じで、分布の特徴も、早期同様、狭山丘陵の舌状部分に位置するが、台地部にも遺跡がより散在するようになる。しかも、早期から継続している遺跡も多いことが指摘される。また、この時期の集落遺跡は、狭山丘陵内よりも台地部に形成されていた傾向がうかがえる。
代表的な遺跡に、埼玉県所沢市の山下後遺跡や海谷(かいや)遺跡、白旗塚遺跡、畦の前遺跡、お伊勢山遺跡などが、また東京都瑞穂町の六道山遺跡や狭山遺跡など、武蔵村山市の吉祥山遺跡や屋敷山遺跡など、東大和市の鹿島台遺跡や多摩湖第11遺跡など、東村山市の中の割遺跡などが確認されている。
中期の狭山丘陵周辺の遺跡分布は、前期より遺跡数が激増し、丘陵舌状部にはほとんど遺跡が確認されている。また、各河川流域にもほぼ等間隔で遺跡が集中し、今まで遺跡が分布していなかった河川より離れた台地部にも認められるようになる。しかも、早期や前期から継続して存在する遺跡のほとんどが集落遺跡として住居跡が検出され、これらの遺跡を中心として、中期になって築かれた集落遺跡とあわせ、狭山丘陵全域を活動の場として利用した結果が、遺跡分布によく表れている。
代表的な遺跡に埼玉県所沢市の山下後遺跡や膳棚(ぜんだな)遺跡、海谷遺跡、白旗塚遺跡、畦の前遺跡、高峰(たかみね)遺跡など、入間市の石塚(いしづか)遺跡や狭山際(さやまぎわ)遺跡、滝入(たきいり)遺跡などが、また東京都瑞穂町の六道山遺跡や狭山遺跡など、武蔵村山市の吉祥山遺跡や屋敷山遺跡など、東大和市の八幡谷戸遺跡や鹿島台遺跡、諏訪山(すわやま)遺跡、多摩湖第11遺跡など、東村山市の中の割などが確認されている。
後期の狭山丘陵周辺の遺跡のあり方は、周辺地域と同じように、遺跡数は激減する。しかし、狭山丘陵周辺に分布している遺跡は、中期以前から継続する遺跡であったり、それらの遺跡付近の低地部に存在する遺跡である傾向が認められる。また、遺跡の立地もそれまでの時期と異なり、丘陵部よりも台地部または河川流域の低地部分に分布する傾向がうかがえる。
代表的な遺跡に埼玉県所沢市の山下後遺跡や堺窪(さかいくぼ)遺跡、膳棚遺跡、畦の前遺跡お伊勢山遺跡などや、入間市の石塚遺跡が、また東京都瑞穂町の浅間谷遺跡、武蔵村山市の吉祥山遺跡や屋敷山遺跡など、東大和市の多摩湖第11遺跡など、東村山市の下宅部(しもやけべ)遺跡や鍛冶谷ッ(かじや)遺跡、徳蔵寺(とくぞうじ)遺跡などが確認されている。晩期の狭山丘陵周辺の遺跡分布は、丘陵部にわずかに残るものの、ほとんどの遺跡が姿を消す。晩期の遺跡に、所沢市のお伊勢山遺跡や武蔵村山市の吉祥山遺跡と屋敷山遺跡、東村山市では下宅部遺跡や日向北(ひなたきた)遺跡などの遺跡が確認されている。この時期の集落跡として確認されているのは東村山市の日向北遺跡のみである。