2] 『江戸名所図会』(天保5(1834)年・7(1836)年刊行)
「江戸名所図会」の編者は、齋藤幸雄(長秋)、幸孝(県麻呂、莞斎)、幸成(月岑)の親子三代。記事は神社・仏閣・古跡名所を挙げ、その現状を述べてあるが、すべて実地調査に基づくもので資料価値が高い。この中にも狭山丘陵と周辺の村々が描かれ、神社仏閣などのようすも描かれている。「狭山」という条には、「粂村より發りて、西の方箱根ヶ崎迄、凡三里に餘れる連岡を云う。」と記されており、「久米川」、「曼茶羅淵」「山口観音」、「山口岡」などの場面に狭山丘陵が顔をのぞかしている。
3] 『武蔵名所図会』(文政3(1820)年刊行)
八王子千人同心である植田孟縉が著す。「狭山 山口領野口村、久米川村周辺より西の方へ村山郷筥根ヶ崎村というところでまで、当郡(多摩郡)と入間郡と峯を界として、民家はその裾に散在せり。東西へ長く亘りて凡そ二里半許、南北は狭きゆえにや、狭山と号する由。」と書かれ、「阿豆佐美神社」の裏手には「狭山の峰」名がある。
『武蔵名所図会』より