(4)歴史的にみる狭山丘陵の景観
1] 『武蔵野話』(文化12(1815)年刊行)
斎藤鶴磯が自らの脚で歩き著した「武蔵野話」には、狭山丘陵の当時のようすが、詳しく描かれ説明されている。斎藤鶴磯は、所沢に住んだ20年の間、各地を歩き調査し、当時残されていた古文書・金石文・出土品や館跡・寺社などをこの書で紹介し、従来の誤りを正し、私見を加えている。
その中のいくつかを紹介すると「久米村八国山将軍塚」には、狭山丘陵の東端が描かれており、山には元弘の碑と松などの樹木があり、丘陵周辺の田畑のようすも描かれ、「筥根ヶ崎村筥根権現」では、逆の西端が筥根ヶ崎村の賑わいとともに描かれ、「武蔵野を帯のごとくほそくまとひ箱根ヶ崎村よりはじまり久米川村までつづける山を狭山といふ。」と記述している。また「勝楽寺村勝楽寺」「宮寺郷」にも丘陵と丘陵周辺の耕作地のようすが描かれている。また「久米川村」では、当時の村のすがたと丘陵の縁を流れる河川のようすが詳しく記されている。
『武蔵野話』より