板碑は、末世の世の中に宗教に救いを求めた当時の人々のくらしを物語るだけでなく、板碑が本来あった所在地を確認し分布状況により、中世における狭山丘陵の村の分布もわかる。また、それを所蔵する寺院なども開山を中世に求めることができる。城跡などは史跡として文化財もあり、特に平安末期から武蔵野国で活躍した武蔵七党の一派であり、この狭山丘陵を拠点においた山口氏に関する山口城やその墓石などの文化財が所沢市にはあり、その他多くの城跡を残している。
近世に入ってからの文化財は、その前の時代に比べ多くなる。古文書類はもちろんのこと今残る狭山丘陵の地域にある歴史的な建造物は、大概はこの時代のものである。この時代の文化財が多いゆえか、各市町村でもこの時代の文化財すべてを指定文化財にできずにいる。特に路傍や神社仏閣に残る石造文化財などは、その数が多く指定するのがむずかしい現状がある。
この時代、狭山丘陵の谷地、谷戸や丘陵と台地の境に住んでいた人々は、武蔵野台地を開拓し、新田開発を行なった。耕地は広がり収穫高はあがったが、逆に入会地や秣場の争いなどがおこり境塚などが作られた。武蔵野は江戸の消費都市を支える生産地であり、そのため物資を輸送するための江戸への道が発展し、川越や青梅やその他の地域を結ぶために所沢や扇町屋などは、中継地として栄えた。これらの物資は、陸路のみで運ばれたのでなく、特に狭山丘陵周辺の地域では、現在の志木市にある引又河岸から新河岸川を使っての舟運も多く利用した。このために引又の名を記す道標なども多く残っている。また道標だけでなく路傍の石造文化財には、道の神様としての庚申塔や当時運搬業にたずさわった人々の存在がわかる馬頭観音なども多くある。
里山とは自然と人の暮らしが、ほどよく関係し調和をなす場とすれば、前述した文化財はそれを証明する資料としての存在と自然と人の間にたつ接点といえる。そして、目に見える(民俗)文化財とともに伝承されるまつりや年中行事など無形の文化財の存在も大きく、人と人の関係、総じて人の輪を広げる要素となる。また、地名なども二次的だが、その地がもつ歴史の証人となる。「狭山丘陵の里山の景観」のために独自の視点に立ち、文化財を守らなければならない。