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すなわち、国と地方の双方に利害のある事務を地方公共団体に行わせるために要する費用については、国はその利害の程度に応じて経費を負担すべきであるという国と地方の経費負担区分論が生まれた。

そしてこの経費負担区分論は、国にとっても地方公共団体にとっても最も重要な行政であった義務教育に要する費用の負担関係を中心として発展してきた。

この点についての経緯は以下の通りである。

(1) 明治5年、学制の発布

新教育制度の基礎をなす小学校教育(8年制)は当初、学区が担当することとされた。この学区制とは、全国に小学、中学、大学を設けるためにとられた制度であり、全国を53,760の小学区に分け、ここに小学校1校ずつを設置、210小学区をもって1中学区とし、全国256の中学区に中学校1校ずつを設置、32中学区をもって大学区とし、ここに大学1校ずつを設置、全国に8大学を設けることとされた。

(小学校の開設は急速に進められ、3〜4年の間に全国的に必要な26,000ほどの小学校が設置されたが、学区制による中学校の設置は実際には行われなかった。大学についても、直ちに8大学の設置には至らず、明治10年にようやく東京大学1校が開設された。)

各府県ともに学制の発布後直ちに管内を小学区に分けてここに小学校1校設けることを目標として学制の実施にあたった。その際、地域住民の努力、各地の学区取締の活動等は大きな推進力であった。

これらの各府県小学校の設立運営の経費は、管内各戸への賦課金、授業料、有志の寄付金等によったのであり、この点についても各地区の住民には多くの経済的な負担がかかった。

(2) 明治12年、学制の廃止、教育令を公布

教育令の基本方策は、中央統轄による画一的な教育を改めて、教育行政の一部を地方に委任することであった(教育の地方分権の考え方)。そして、学制の重要な方策であった学区制を廃止し、府県に学校の運営をまかせることとされた。また、督学局学区取締による地方教育の統轄を改め、学務委員を町村住民の選挙によって決定するという方法が加えられた(教育委員会制度に似た方策)。

(3) 明治13年、教育令の改正

府知事、県令の権限を強めたり、文部省の行政力を強めて中央統轄の方策をたて、学校の設置や就学についての規程を強化して、学校教育が弱体化する傾向を改めようとした。

 

 

 

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