<都市住民と両側町の誕生>
律令制の衰退とともに変化が始まる。地方から徴用され、ものづくりや商いを営んでいた人々が、都市住民として定着するようになり、自らの意思で自らの生活のためにものづくりや商いを営むようになる。
徐々に力をつけてきた都市住民達は、公家たちから通に面した屋敷を買い取り、築地塀を壊し、通に面した建物を建築するようになる。こうして通に開いて商売を行う建物がやがて軒を連ねて建ち並び、こうした店を求めて住民が頻繁に往来し、都が賑やかになっていく。
やがて、通をはさんだ両側町という独特のコミュニティが形成されていくのである。
<町の自治>
両側町の住民の生活はますます豊かになり、周辺からの略奪から集団で防衛するようになった。戦国の動乱期には、町の周囲を土塀(壁)、門(釘貫(くぎぬき))で囲うと同時に、上京や下京の単位で塀や堀を設置(惣構(そうがま)え)し、その費用や労力を共同で負担していったのである。
江戸時代になると都市化は進み、防火、塵芥・し尿処理、清掃などの生活問題についても共同で対処する必要に迫られ、こうした各種の自治活動についての決め方や費用負担の方法についてきめ細かに取り決められるようになる。町を共同で守り、育てていく住民のあり方を含めて町を運営するルールが明文化されるようになり、「町式目(ちょうしきもく)」「町定(まちさだめ)」という名前で、多くの町内で定められていたと考えられている。