ここでなされるべき主要な指摘は、どんな基準が最も適当かということについて議論の余地がしばしばあるということであり、またどんな場合にも、現れては消えるようなものではあっても、ある特定の基準や尺度には流行があるように思えることである。実際、特定の実績指標の陳腐化や、過度なケーム操作の対象となるのを防ぐためには、この種の長期の変化が必要となることを示唆するきわめて説得力のある理論がある(Meyer and Gupta, 1994)。市場部門においてさえ、企業の実績を判断するために用いられる支配的な尺度は、次のように何度も変化してきた。
多くの要因がある。特に低劣な実績と良好な実績をみわける能力を減じるかもしくは失わす実績手法の傾向や、現行の尺度とは異なるが、わずかながら関連のある新しい実績手法を創設し続けようとする誘因である(Meyer and Gupta, 1994)。
おそらく、これが、多くの研究が公的組織に対するよい時系列指標を構築することは難しいとした理由である。なぜなら公的組織はむしろ頻繁に変化しているからである。(Pollitt, Birchall and Putman, 1998; Talbort, 1996)。
5.7.3. だれが結果を必要とするか
一つの控えめな論議の結論は、上記から引き出される。もし「結果」が、変化の最終的結果を記述する科学的に検証されたデータとして限定的な方法で定義されたならば、国際マネジメント改革運動は、行進の前進をあおるような結果を必要としなかっただろう。これは、政治や制度の象徴的かつ修辞的な側面を強調する分析者には意外なことではない(Brunsson, 1989; Hood, 1998; March and Olsen, 1995; Meyer and Rowan, 1991; Power, 1997)。にもかかわらず、それはやはり、改革の提案者自身によって用いられるいくつかのパラダイム内の非連続性―特に国家機構を最小化もしくは市場化しようとする人たちの鋭い刃のあるビジョンや実績志向のビジョン―と慇懃に呼ばれるものを表しているのである。
同様に、別の種類の「結果」が、改革の勢いを維持するには必要である。おそらく言説と意思決定を継続的に高水準で創作していくことが不可欠だろう。1980年代初頭以今日に至まで、白書や憲章、「新しいイニシアチブ」の流れは、途切れることがなかった。どの国も、なんらかの改革プログラムを持たなければならなかったし、少なくともそれを議論しているようにみえることが必要とされてきた(コール首相でさえ、ドイツの1998年の不運な選挙戦では、国家のスリム化について演説するはめになった)。本書の著者が知るかぎり、毎年多くのパブリック・マネジメント改革関連の国際会議が開かれているし、国内の会議はもっと多い(パンフレットは特別な調査の必要がなくとも手に届く)。この言説と意思決定の行進が今やガバナンスの恒久的な特徴なのかどうか、あるいはこの上げ潮の流は引き潮に入ったのかどうかを尋ねる人がいるかもしれない。もしマネジメント改革が‘流行らなくなった’としても、制度の変化が終わることを意味しているわけではない。改革にはもはや、それほどのニュースヴァリューのないことを意味しているに過ぎない―改革は、過去のある期間の間主にみられていたように技術的適合の地位を取り戻すだろう。