経済の論理と政治の論理は同じ結論にたどり着かないかもしれないし、政治的展望から、厳密な経済的合理性の適用は最終的な説明にはならないかもしれない(Pollitt, 1998b)。おそらく、ある種の政治的取引は、目的が曖昧なまま、かつ結果に関わる情報が要領を得ないといった文脈のなかでのみ成功しうるものなのだろう。換言するなら、資源のある特定の配分から期待される結果についてのより良い情報は、政治家がそうした配分を決定しなければならない局面を向えたとき、たいして役には立たないだろうということである。メイン(Mayne, 1996, pp.13-14)は、予算編成過程において実績情報を用いる試みについての実態調査で、次のように述べている。
一般に、実績測定は、あるプログラムなり組織なりが受け取るであろう資源の水準について決定を下すために使用されることはない。これは、決定するための明確な目標を明らかにしている人たちにとってさえ、真実である…。資源配分に関わる決定は、その大半の部分が、伝統的な予算編成の慣行によって推進し続けられる…。実績情報は、優先順位、業務調整や資源レベルなどの内部マネジメントにかかわる決定を‘支援’する。
人的資源マネジメントの分野では、「実績の論理」を導入することはさらに論議を呼ぶ。いくつかの行政管轄体においては、規則の見直しによって、要求される実績を絶えず下回る個人を解雇もしくは懲罰することが容易になる。おそらく、これは、公的組織が本当に深刻な無能力や怠惰による少数の事例を取り除くのには有益であったといえよう。実績相関報酬システムは、多くの職員に対して適用されてきたが、必ずしも多大な成功を収めた訳ではない(OECD, 1993b; Gaertner and Gaertner, 1985; Perry and Pearce, 1985)。最新の実績が、唯一の―少なくとも支配的な―終身在職権や昇進の基準となるという理念は、―先任権、忠誠心、資格、その他の要因よりも重要視されているが―、普遍的に普及していると言うにはほど遠い。この傾向に対する支持は、政治家や上級公務員(すでに「功成り遂げた」人々)方が下級の職員より多くなっているようにみえる(Bourgault, Dion and Lemay, 1993)。問題の部分は、能力給システムが分裂を生じる可能性があるということである―公務員が、こうした制度が不公平だ、実績の真の差を記録するのはあまりにも露骨すぎる、あるいはある程度の不正操作を招き易いとか感じることは、よくあることである。もう一つの問題の部分は、配分されることになる実際の「ボーナス」が、一人当たりの額がきわめて少額であるか(したがって、少しも動機付けにならない)、もしくは額は大きいが突出した少数者に限られる(この場合には、大多数が自分たちには受け取るものがないことに失望を感じる)ことが判明することである。相当額のボーナスを総労働者数の相当割合の人々に配分するシステムは、実際、まったく支払い不能でなければ、むしろ高くつくことになろう。
戦略的マネジメントの発展は、また、組織をより実績志向にさせる一つの方法として描写できる。一つか、それ以上のさまざまな戦略的アプローチが、とりわけオーストラリア、カナダ、フィンランド、ニュージーランド、イギリスにおいて多く議論され、―程度は様々まだが―執行されてきた。ここでの基本的な結びつきは、戦略的アプローチが、より明瞭により整合的に、高度な優先順位目標に焦点を当てることを組織に可能にさせることにあり、このことが順次最も重要だと思われる結果をより包括的に追求することにつなげる。ニュージーランドは、おそらくもっともよく知られた例だろう。戦略的結果領域(Strategic Results Areas=SRA―包括的で、しばしば、内閣によって定められた横断的なポートフォリオの優先順位)の年に一度の検討と、より詳細な重要結果領域(Key Rcsults Areas=KRA―部局を率いる最高行政官との契約に盛り込まれた中期最重要目標)への関連づけを含むシステが開発された。このシステムの表出は、問題がないわけはないが、それでもやはり以下の成果がもたらされた。