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イギリスにおける執行の過程は、フィンランドやドイツに比べるともっと熱狂的で、もっと荒っぽく、もっと徹底していた(1979年の開始はフィンランドに10年先行していた)。広範にわたる改革の波が15年以上もにわたり、次から次へと押し寄せたうえに、大臣らによる断定的な教条主義的宣言をともなうこともしばしばだった。変化の大半は、断固たる上意下達方式だった。中央政府では、「レイナー監視制度(1979年)」、「財務管理イニシアチブ(1982年)」、「ネクスト・ステップ・プログラム(1988年)」、「市民憲章(1991年)」、「民間融資導入イニシアチブ(PFI)」、「省庁数の削減(1994-97年)」、中央政府全体における発生主義会計の導入」などの新制度が実施された。大規模な人事関連改革は、上級公務員を対象とする個人契約による広範な採用、実績関連報酬の大々的な使用、個々の省庁や出先機関に対する大半の人事権の分権化をもたらした。中央政府はまた、地域政府や地方自治体においても、フィンランドでもドイツでは不可能だったにちがいない、命令的な方法をしばしば用いて、急進的な改革を推進した。MTMは国民医療サービス、教育および地域健康管理に課せられた。「都市開発公社」、「シティ・テクノロジー・カレッジ」、「公費支援学校」、「監査委員会」、「NHS信託」など様々なタイプの新しい組織が多数創設された(Painter et al, 1996)。

 

最後にアメリカ合衆国の例をあげて、比較対照し、解釈する。この国では、1980年代に大統領の後援する多くの委員会や評議会が設けられ、またその後1990年代には国家実績外観(the National Performance Review=NPR)が行われ、表面的には上意下達の改革が行われた。しかしながら、こうした概観の背後には、明らかに、分裂したアメリカの政治行政制度は、トップが計画して降りてきた改革を執行することを認めないということである(Peters, 1995)。こうした多くの改革への追い風は脆弱で、あてにならなかった(レーガン大統領のグレース委員会が、この一例である)。片方のニュージーランドやイギリスでは、中央の行政部は、自由に執行する能力を備えていなかった。NPRのもっとも興味深い部分のいくつかは、「大改造の実験室」であったことであり、これらは機関ごとに大きく異なっていた(Ingraham, 1997)。新しい組織は確かに創設されたが、イギリスのネクスト・ステップの諸機関の規模ではなかった。省庁のパターンはそれほど変わらなかったし、またその多くも、確かに、中央で決定された戦略計画に沿って変わらなかった。人事管理は、上記で触れたとおり、多くの革新が含まれていたが、SESや実績報酬、には重大な問題があったし、また連邦政府の総労働人口の半分以上が未だにやや厳格なメリットシステムの中にいるという重大な問題がある(Kettl, et al, 1996)。それゆえ、改革に関する‘論争’はたいへん激烈―そして、時にきわめて教条主義的―だったと言えるが、改革の実現は「つぎはぎ」だらけだった―こちらでは精力的に取り組まれているかと思えば、あちらではもたついていた―。

 

4.9 総括:複数のオメガ、複数の軌跡、そして読めない展開

 

本章の冒頭で提起した問題は、十ヶ国のすべてが一つの、類似した道をたどったのだろうか、それとも、その反対に、多様性な改革に対して識別可能なパターンは、―臨機応変の改革という国の内外での試合―、皆無なのだろうかというものだった。上記で展開された―それに、付表Aに記載されている―証拠を元に、これらの命題への回答として、何が言えるのだろうか。

 

 

 

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