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イギリスでは、サッチャー女史支配下の中央での計画策定と調整を嫌悪する時代の後、ブレア労働党政権がより良い「結びつき」、水平的に調整された政策決定を行っている。刑事司法、少年や地方を対象とするサービス、などの分野について部局間での再検討に着手し、政府の全支出の包括的見直しを実施した(Chancellor of the Exchequer, 1998, 特に、pp.33-41)。戦略的計画策定については、次章で簡単な評価を行い、こうした活動の結果を問う。

 

部局の合併は長らく、一つの調整改善策であった。むろん、この方法は、上記で触れた専門化の趨勢と矛盾するが、いくつかの国で用いられてきた方策の一つである。ニュージーランドは、多数の省庁が増殖するままになっていたが、その隣国オーストラリアでは省庁の数を28から18に減らした(1987年―付表Aを参照のこと)。1993年、カナダは先例に従い、連邦政府の省庁の数を32から24に減らした(付表A「国別資料:カナダ」を参照のこと)。これらのイニシアチブはもっと昔に(1960年代や1970年代初頭)イギリス政府が行った、大規模な「戦略的」省庁創出による省庁組織パターンの合理化という試みを思わせる(Pollitt, 1984)。

 

中央政府の数に見るもう一つの特徴は、政治家自身による、官僚に行使する支配権を強めようとする試みであった。この現象については、第6章でより詳細に論じるが、ここでも、これが事実上、もう一つ別の調整の努力であることに触れておくべきである。これはニュージーランドやオーストラリア、イギリス、アメリカ合衆国ではとくに顕著だったが、オランダやスウェーデンでは最も穏健だったにせよ、同様の試みが行われた。オーストラリアは多分、もっとも明瞭な例だろう。ハーリガンはこれを評して(Halligan, 1996b, p.82)、以下のように述べた。「(1981-1993年の労働党政権下で)改革プログラムを推進したのは、労働党政権の最大の関心―政治の支配―であり、これはそれ自体が目標だとみなされると同時に、党の方針を実現する手段とも見なされるようになった。これを達成するには、官僚と政治家との間で権力の再分配が行われなくてはならなかった」。これを達成するために、首相の地位と内閣とが有する行為能力が強化され、省庁の組織パターンが徹底的に変更され(1987年)、大臣らは、上級公務員の任命に影響力を行使する権利をこれまで以上に積極的に利用するようになったし、とくに大臣顧問をスカウトする際には、従来に比べてはるかによく利用するようになった。

 

以上、調整について概観したが、これを締めくくるにあたり、伝統的なヒエラルヒーがそのまま残っていたにせよ、ヒエラルヒー的調整の手段は変わる傾向にあることに触れておくべきである。とくに、入力の合理化と手続の規制による支配と調整から、目標と出力水準による調整に重点が置かれるようになった(これについては、財務関連のマネジメントの項ですでに言及したし、以下の4.7でもさらに詳しく研究する)。十ヶ国のうち過半数の国が、想像しうる公共サービスのうち、ほとんどありとあらゆるものを達成するために、何組かの指標を積極的に開発しようとした(オーストラリアについては、『Department Finance, 1996; Department of Finance and Administration, 1998a and b; Development Team, 1998; カナダについては、Mayne, 1996; treasury Board of Canada, 1996; オランダについては、Leeuw, 1995; Mol, 1995年; イギリスについては、Carter et al, 1992; Chancellor of the Duchy of Lancaster, 1997; Likierman, 1995, Pollitt, 1988, 1990; アメリカ合衆国については、Radin, 1998年』。

 

 

 

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