日本財団 図書館


また、それが可能であるなら、それらは行政改革の過程に対して、いかに影響するのだろうか。幸運なことに、これは多くの学術研究や評論を惹きつける分野であるため、われわれはまたしても他の学者の研究をかいま見ることのできる、うれしい立場に立っている。こうした著述家の多くは、とくに強力な二つのモデルの存在に賛成している。「大半の行政制度は‘法治国家’モデルか、もしくは「公益」についてのアングロサクソン的考えによって導かれているように見える。これらの二つのモデルは本来的に無矛盾ではあり得ないため両立しないので、その中間に分類される制度はほとんどない」(pierre, 1995, p.8)。

 

‘法治国家’という展望から、国家は社会の中央にあって統合する力であり、その中心的な関心は法律の準備、公布、および執行にある。その結果、大半の上級公務員は法律についての訓練を受けるし、実際、とくに大部の分離独立した‘行政’法がつくりだされる。こうした文化の中では、天性の官僚的なスタンスは、原則と前例に忠実であり、一人の公務員としての行動も一人の市民としての行動も無謬性と法律による支配というコンテクストにおいて定まる。こういう制度を監督するには、フランスの‘評議院’やドイツの‘連邦憲法裁判所’など、行政府の司法ヒエラルヒーが必要である。このアプローチの典型的な価値は、少なくとも法律以前の平等という意味において、社会的に必要とされる統合力としての法律の権威に対する尊敬、前例に対する注意、均衡への配慮などが、あげられる。すべては以下のとおりである。

 

055-1.gif

 

対照的に、「公益」モデルは、社会の中でより安価な、あるいはより支配的でない役割を果たす国家に一致する(実際、「国家」という表現の使用は、オーストラリアやニュージーランド、イギリスといった、本来の「アングロ―サクソン」国家においては、まれである)。「政府」(「国家」よりもむしろ)は、必要悪の一種で、必要最小限度の権限を持ち、大臣も公務員も、選挙された議会やその他の手段によって絶えず公衆への説明責任を保持させられるものとみなされている。むろん、法律は統治の必要不可欠な構成要素であるが、その特定の見解や手続きは‘法治国家’モデルにおけるほどの優越性は持たない。すべての市民は法の支配下にあるが、法は通常は、前面というより、むしろ背面にあり、(イギリスではこの事例に見るとおり上級公務員の大多数が「総合職」である)多くの上級公務員はその神秘性について特別な訓練を受けてはいない。公務員は、単に政府組織に勤務する、ただの市民とみなされ、「国家」を代表するという高級な任務を帯びた特権階級の一種とはみなされていない。政治のプロセスは、公益(国民の利益、国益)において考案された方法に対する公衆の同意(あるいは、少なくとも黙従)を得るための種の試みとみなされている。さまざまな社会的利益集団は、時に激しく敵対する方法で互いに競争し合う。こういう状況において、政府の仕事は、公正で信頼できるレフェリーの役割を担うことであり、一方に肩入れすることではない。したがって、部分的利益活動の公正さと独立性が、技術的な熟練よりも尊重される(あるいは、厳密な合法性さえも上回る)特性として、プラグマティズムと弾力性をともなう重要な価値となる。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION