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不運なことに、メトカルフ=リチャーズのパブリック・マネジメントの定義には、いくつか重大な欠陥がある。本書は、理論と経験による証拠とを統合しようという試みている。経験的には、「パブリック・マネジメントの改革」の旗の下に起きた膨大な量の変化は、メトカルフの見方によれば、マクロ的−組織的なものであった。パブリック・マネジメントを担当する人間の大半は、「マクロ的−組織的な、同一組織レベルでの構造変化を取り扱う能力」を構想することに、みずからの時間の大半を費やしてはいない―後者は、通常比較的少人数のエリート官僚‘オー・フォンクショネール(houts fonctionnaires)’に割り当てられる任務である。それゆえ、メトカルフとリチャーズのアプローチを誠心誠意採用するなら、本書の意図する主題の大部分を除外することになる―し、「パブリック・マネジメント」という語を、大半の官吏や政治家が用いるより、より厳密で、より特化した意味で用いることになる。これは、主として政府に割り当てられ、産業界には厳密な相当物がない、ある特定の、高レベルの構造調整機能があるという主張を否定するものではない。だからといって、パブリック・マネジメントの改革関連の論文にはあまり高尚でない問題を取り扱ったものが多いというわけでもなければ、われわれがこれを、本書の意図するところの範囲内の世俗的な領域に含めたいと思っているわけでもない。実際、われわれはそこからもっと掘り下げて、高レベルの「マクロ的」機能がミクロ・レベルの事業に対して影響力を持っている(そうでなければおかしいと指摘する人もいるかもしれない)ので、ミクロ・レベルの事業もまた、公共部門における特殊性をある程度は持っている場合が多いことを示唆するつもりである。

また、メトカルフとリチャーズが‘構造的’、‘システム’、‘責任’という語を用いていることをめぐる問題もある。システム全体を貫く構造的諸問題につき、その責任をとるとは、どういう意味だろうか。システムとは、しばしば権限や正統性という基礎を異にする組織の集合体(たとえば、EU)である。どんな人間であれ、団体であれ、組織であれ、かかる存在について「責任をとる」ことが可能だろうか。それに、それが不可能であるのなら、システムを操縦することについての、言語によって表現されるべき民主主義的アカウンタビリティはどうなるのだろうか。さらに言うなら、われわれは「構造的」問題とその他の問題とを、どのように弁別すればよいのだろうか。

 

第三の定義は、高レベルの「マクロ的組織能力」より範囲の広い領域を意味している。ピエールは、社会の従来の政治科学を二つの分野―すなわち国家と市民社会―に分割した。この時、両分野を結合する留め金となるのが行政(public「management」ではない)である。

 

 

 

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