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このように南国イメージの強調によって都市住民の欲望をかなえる理想空間とされるなかで、瀬戸鉛山村は、皇紀2600年記念を契機とした昭和15年の町名決定に際しては、都市資本の土地会社が優勢を誇っていたことを背景に、湯崎出身の村長主唱の下で白浜町となった。この白浜の名称から喚起される白さや明るさのイメージは「南国の匂ひ溢れた明朗な南紀の海浜の温泉境」などと言われるように、南国のイメージとうまく結びついており、戦後の昭和30年半ばに東京の人々の新婚旅行の番人気となった白浜*91は、千葉の白浜とも区別するために南紀・白浜温泉という呼び名が定着した。伝統が強調される湯崎温泉から、欧米イメージが強調される白浜温泉へ、そして南国のイメージの強調される南紀・白浜へという流れは、既に戦前において準備され、かつそれぞれの相反するイメージが共存し、混交する境の空間として創造されていたのである。

 

IV あとがき

事例として取り上げた南紀・白浜温泉のリゾート形成過程は、1]伝統的な湯地場としての湯崎温泉(大正8年の観光資本参入時まで)2]欧米的イメージの近代的温泉の白浜温泉(昭和8年の鉄道到達まで)3]南国イメージの強調と南紀・白浜温泉へ向けて(鉄道到達以降)と、ほぼ三段階にわけられた。これらの異国(もしくは過去)のイメージの強調は、特定のリゾート発展段階における適切な異他性の表現の重要な象徴的レパートリーとして用いられた。

 

*87 前掲85

*88 前掲85

*89 雑賀貞次郎『白浜湯崎情緒』、南紀の温泉社、1935。によれば、昭和10年の段階で、芸妓検番3ヶ所、カフェー18ヶ所、芸妓89人、酌婦12人、女給112人、仲居248人である。

*90 『大阪毎日新聞和歌山版』1938年4月21日

*91 『旅』1963年9月p.92.

 

 

 

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