b 南国楽園イメージの形成
結果的には国の援助及び干渉もなく土地会社に先導されて開発が進行するなかで、特に鉄道到達する昭和8年前後から南国イメージが盛んに語られ、かつ事業化されるようになる。これはまず昭和8年1月に気候観測所が設置され、都市、そして熱海や別府などの競合する温泉地よりも暖かく避寒地として優秀であると宣伝することに始まり*79、「植物を以って氣候を表はす」べきだという提言にあるように*80、「白浜温泉一帯を亜熱帯風景化する」*81事業として格樹や檳梛樹の植樹がなされていた。またいくつかの南国イメージを喚起する施設の計画がなされていたが*82、昭和8年4月に「南国情緒を味ははせるに最適当」*83とされた番所山動植物園が設立れ、具体的な施設となる。この白浜に対する南国イメージは、既に大正15年の「南国女の純真と美に香る笑子」*84というエッセイにおいて都市からの旅行者によって語られており、都市の人々が己の欲望を表現するための地理イメージとして白浜土地の開発初期から存在していたものである。それが鉄道到達により京阪神から3時間の週末行楽圏に編入されたことを契機に、異他性を強調するために白浜のイメージに合う異国のイメージを物質化し始めたと言える。
また土地開発事業を牽引してきた小竹岩楠が昭和8年に死去し、その後内紛問題も抱えるなかで白浜土地の影響力が低下し、代わって、鉄道到達を見込んで流入した京阪神を中心とする都市資本の土地会社(昭和5年創設の紀伊白浜温泉土地、昭和7年創設の白浜温泉土地倶楽部と東白浜土地、そして昭和9年創設の白石土地)が、既存の京大臨海水族館がエキゾティックな遊覧施設として人気を博するなかで*85、東白浜土地が昭和9年に東白浜水族館を設立するなど南国イメージを喚起する事業を牽引しはじめた。特に白浜温泉土地倶楽部は、白浜へ訪れる旅行者であった栗本鐵工社主の栗本勇之助主唱の下で、大阪倶楽部、商工会議所、鐵工組合員を母胎に関西の財界人が多く出資して成立し、白浜口駅に最も近い15万坪を開発する経営面積の広さ、そしてその豊富な人脈から白浜開発を主導していくようになった。「楽園の建設を主眼とし単なる土地会社如く営利のみに捉はるる事ない」*86とした白浜温泉土地倶楽部は昭和13年から先の番所山動植物園と京大臨海水族館を委託運営し、同年に小林三系の資本協力の下で大浦熱帯動物園を開設、宝塚熱帯動植物園から鰐や駝鳥などの熱帯動物を持ち込み南国楽園化事業に手を染め、都市の資本に再編された白浜は都市住民の理想と欲望がより反映された空間が形成されるようになる。
*79 前掲46の1]、
*80 西川義方「崎の湯」、1932(雑賀貞次郎編『白浜・湯崎 温泉叢書 文芸篇』、南紀の温泉社、1934)95-96頁。
*81 『大阪毎日新聞和歌山版』1933年10月20日
*82 京大臨海水族館併設の熱帯植物園計画(昭和8年8月)、和歌山地方測候所所長提唱の熱帯植物園計画(昭和10年)、シンガポール帰りの御坊在住者による鰐園計画(昭和10年9月)などがある。
*83 『大阪毎日新聞和歌山版』1933年6月7日
*84 並木 茂編『紀の国礼讃』、並木 茂(個人出版)、1926、214頁。
*85 並木 茂編『旅は紀州路』、旅は紀州路社、1935、71頁。
*86 『紀州人』1933年9月