例えば、「紳士貴婦人の為には高等浴場を設け、平民主義の人々の為には普通浴場を用意」*68した白浜館のように、旅館の「内湯」は日常の上下関係の秩序が持ち込まれていたが、露天湯は「お湯の中は金力も権力も名誉もヘチマもない人間一切平等真に人間自由の別天地」*69とその自由が語られ、旅館経営者に軽視されていた外湯の価値が(再)発見されはじめていた。そのうえ白浜の高級志向に対して湯崎が親しみやすく自由な空間として語られ始め、湯崎温泉が魅力ある他所として描かれ出していた*70。このような状況下で、白浜の近代的な開発は「都会をまねて及ばざる如き植民地式のもの」と非難され、海岸道路は「コンクリート作りの殺風景なドライヴウエイ」*71と酷評され、風致保全が熱海別府と差別化するための道だと言われるようになっていた。この熱海や別府との差別化のコンテクストで、「熱海ヤ別府デハ見ラレヌ立派ナ海水浴場」と海水浴つきの温泉場の貴重さが昭和7年の白浜湯崎観光協会設立趣意書で語られ、温泉に比して評価の低かった海水浴場もここにきて価値が(再)発見されていた。
またリゾートとしての規模を拡大しつつあった白浜に対し、特殊な状況による内発的ではない差異化の徴候もあった。特に大きなものとしては国家の施策との関係で、昭和8年の吉野熊野国立公園に関する議論*72においては、内務省衛生局長が「白浜温泉はあまりに開けてなんとなく新開地の気分がする」*73と言うように、国家の象徴的中心たる国立公園には組み入れられなかったが、昭和10年夏には昭和15年に予定されていた東京オリンピックのための「国際的大歓楽郷の建設の第一候補地」*74に挙げられ、「東洋のモンテカルロ」*75とされようとしていた。戦局の悪化のために実現されなかったが、「特別地域として区画して観光外人のみを入場せしめ温泉、海水浴、ホテルダンスホール、ステージ、音楽室、カフエー、競馬場、ゴルフリンクス、テニスコート、読書室、散歩道を包含する総合歓楽場」*76を創設するとしていた。さらに「世界の王座をほこるモナコ王国のモンテ・カルロは言はずもがなフランスのニース、カンヌ、ピーシーサンジュアンなどのカジノや獨逸のクールハウス等」を設置し*77、「世界のエトランゼを陶酔境にさそひ財布をはたかせる案」*78も立てていた。この計画は、比較的近代的な開発が進行していた白浜を外国人向けに異国のリゾートイメージを流用しつつ再編しようとしたものであり、土地会社よりも本多の志向していた近代的なリゾート実現を目指していたといえる。
*68 毛利清雅『紀南 白良浜温泉』、牟呂新報社出版部、1925、69頁。
*69 前掲58
*70 前掲60
*71 『熊野太陽』1933年7月1日2日
*72 昭和8年には、和歌山県関係の本宮、古座、三輪崎、那智、白濱の5つの地域を国立公園に含めるか否かの議論が展開されていた。
*73 『大阪毎日新聞和歌山版』1933年5月11日
*74 『大阪毎日新聞和歌山版』1935年8月11日
*75 『大阪毎日新聞和歌山版』1935年12月6日
*76 『大阪毎日新聞和歌山版』1935年8月11日
*77 『大阪朝日新聞和歌山版』1936年2月2日
*78 『和歌山新報』1935年8月10日