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このように白浜は都市のモダンな文化空間に娯楽施設においてもイメージにおいても包含されたかたちとなり、湯崎が「古びた床しさ」のある「療養客向」の温泉場として表現されるのに対し、白浜は「文化の香り高い保養遊覧客向」として表現されるようになっていった*52。旅客数も鉄道の南下やその後の水上飛行機の飛来*53と、時間距離の短縮に伴い増加し続け、鉄道が田辺に到達する昭和7年頃には、「近来都会人士の遊覧地として一日で行ける好適の温泉場といへば、先づ関東では熱海、関西では白浜湯崎」*54と関西圏の代表的温泉場として、特に昭和8に白浜口ヘ鉄道が到達し大阪-白浜間を三時間強でつなぐようになると、「京阪神の人士の遊覧地保養地は次第に圏が拡大され、最初は舞子、濱寺時代、次は和歌浦時代、現在は白浜時代と進んでゐる」*55と言われるようになり、昭和10年前後では宿泊20万人日帰り客40万人と喧噪されるに至った(第3図)。この観光客増加の重要な契機となった鉄道到達も小竹が政治力で湯崎の名を廃して「白浜口」とし*56、既存の湯崎温泉は白浜温泉に最領域化され、都市の周縁にある近代的な温泉場となっていった。

 

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第3図 観光客数の推移

※昭和10年『瀬戸鉛山村勢一覧』参照

(宿泊人数(男)は昭和25年『最近の白浜町」参照)

 

d 欧米への想像力と境の場所神話

このような白浜温泉へ来る旅客は、統計ではほぼ男女比2:1であり(第3図)、詳細は不明であるが昭和10年の新聞記事からは40〜50代が最も多いことが推察される*57。この最も多い旅客の母集団である中高年層の男性にとっての白浜は、「騒音と煤煙の下でビヂネスビヂネスと仕事の重壓の下で働いてゐる人々にとつては真に人生の楽園」*58と表象されるように、仕事や悪い都市環境からの逃避空間であり、そこで白浜の白さのイメージは「夥しい来遊客が靴やフェルト草履の裏に都會の俗塵をくつけて来ては白浜へ置いてゆくようです」*59と自然による浄化のイメージの象徴となった。

 

*52 大阪鉄道局運輸課旅客掛『風景と温泉の南紀めぐり』、大阪鉄道局、1935。

*53 昭和10年に開通し大阪−白浜間を1日1往復していた。

*54 弘富士夫「紀州沿海の生物相」、科学書報12、1937(雑賀貞次郎編『白浜・湯崎の諸文献』、温泉の紀州社、1941)309-315頁。

*55 『大阪朝日新聞和歌山版』1935年7月25日

*56 前掲38

*57 『大阪朝日新聞和歌山版』1935年4月19日

*58 原 静村『日本の温泉郷 白濱湯崎の美を語る』、南海新聞社、1933、35頁。

*59 『大阪毎日新聞和歌山版』1933年12月17日

 

 

 

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