※昭和10年『瀬戸鉛山村勢一覧』参照
(宿泊人数(男)は昭和25年『最近の白浜町」参照)
d 欧米への想像力と境の場所神話
このような白浜温泉へ来る旅客は、統計ではほぼ男女比2:1であり(第3図)、詳細は不明であるが昭和10年の新聞記事からは40〜50代が最も多いことが推察される*57。この最も多い旅客の母集団である中高年層の男性にとっての白浜は、「騒音と煤煙の下でビヂネスビヂネスと仕事の重壓の下で働いてゐる人々にとつては真に人生の楽園」*58と表象されるように、仕事や悪い都市環境からの逃避空間であり、そこで白浜の白さのイメージは「夥しい来遊客が靴やフェルト草履の裏に都會の俗塵をくつけて来ては白浜へ置いてゆくようです」*59と自然による浄化のイメージの象徴となった。
*52 大阪鉄道局運輸課旅客掛『風景と温泉の南紀めぐり』、大阪鉄道局、1935。
*53 昭和10年に開通し大阪−白浜間を1日1往復していた。
*54 弘富士夫「紀州沿海の生物相」、科学書報12、1937(雑賀貞次郎編『白浜・湯崎の諸文献』、温泉の紀州社、1941)309-315頁。
*55 『大阪朝日新聞和歌山版』1935年7月25日
*56 前掲38
*57 『大阪朝日新聞和歌山版』1935年4月19日
*58 原 静村『日本の温泉郷 白濱湯崎の美を語る』、南海新聞社、1933、35頁。
*59 『大阪毎日新聞和歌山版』1933年12月17日