このような湯崎との関係のなかで、当初白浜土地が白良浜に見出していたのは、本多のような海水浴場としての価値というよりは、湯崎と対抗する温泉源としての価値であり、海中から高らかに噴出する海中温泉の銀砂湯は、自然湧出の湯崎七湯に対抗する人工掘削による近代的な温泉場の象徴となった。さらにその湯を引き込み「内湯」を完備した白浜館は、大正11年にあめりか屋によって和洋折衷様式で建築され娯楽場も完備した近代的なものであり、田辺新地の芸妓の出張で小谷新地で13年に営業を開始すると、湯治場のイメージの湯崎に対置される遊興的な温泉場を創り出し、都市の盛り場的な方向性を打ち出し始めていた。
これらの事業の後、白浜土地は一旦自動車業に力点を移し大きな土地開発を行っていないが、小竹は奔走して昭和4年6月1日に天皇行幸を実現させ*50、白浜の名を新聞報道を介して京阪神の都市住民に知らしめることに成功した。この行幸ルートは、白浜経営地内を縦貫し臨海を巡る行幸に合わせてつくられたコンクリートの道路を通り、後に白浜観光の目玉の一つとなる大正11年に瀬戸鉛山村が誘致に成功した京都帝国大学の臨海水族館を目指す白浜温泉中心のものであり、温泉場の象徴的中心が湯崎から白浜へと移行する決定的な契機となった。
c モダン文化空間への包含
白浜土地が開発に参入して以降、湯崎側も対抗して温泉場の近代化をすすめ、同じく大正8年に資本金10万円で湯崎温泉土地株式会社を設立、既存の旅館も自然湧出の湯崎七湯が枯れるほど各々温泉掘削を行い内湯を完備して近代化を推しすすめ、さらに芸妓検番も設置した。このように湯崎と白浜と実質的な差異が次第になくなる中で、白浜土地は、自社経営地内に天皇行幸以降京阪神の都市資本の旅館業者が多数参入したことを契機に、宅地造成や温泉掘削事業を推進する一方で、旅館業から撤退し、娯楽施設の設営を手がけるようになっていく。
特に本多が提起していた白良浜の海水浴場化計画は、天皇行幸のすぐ後の昭和4年7月に具体化され、翌年には本多の海水浴施設の提起にあるように脱衣場や温泉シャワーを設置している。このようなモダンなスポーツ空間の創造は、昭和6年にベビーゴルフ場を、昭和7年10月には白良濱にサンドスキー場を、昭和8年5月にはテニス場を創設するなど盛んに推進される。また娯楽施設として昭和8年8月には温泉とともにカフェーやサロンなどモダンな設備を備えた白浜ホールを開業する。
このような白浜土地の事業は「娯楽慰安の内に国民趣味の向上と一国文化、衛生、保健の進歩発達を助長せしむるの方針」でなされた本多の計画を参考にしたというよりは、当時都市住民が欧米の文化を消化して創り出した娯楽施設を取り入れたものである。洋画家の鍋井克之は、「近代女性の白さ」の流行を例に挙げ「世間が皆明色に向つて進行」しつつある状況下において、「白良浜の白砂」や白い「コンクリートの道路」を有する白浜は「白の魅力のおかげで流行の仲間入りをする資格を得た」のだと、都市住民の感性に白のイメージが適合していたことも指摘する*51。
*50 『紀州政経新聞』の1957年8月13日の記事には、小竹が東京で天皇行幸の万全の手を打ったとしている。
*51 鍋井克之「明朗白浜」、海46、1935。